
青森の陸軍用地標識
地図:青森東部
青森市幸畑にある旧陸軍墓地の入口に見られます。標石は一辺15センチメール程度の角柱で「陸軍用地」の刻字があります。この墓地は1902年(明治35)、青森歩兵第五連隊の八甲田山雪中行軍での遭難者199名の墓地で現在は青森市指定史跡になっており、そばには青森市八甲田山雪中行軍遭難資料館があります。
塩原の海軍用地標識
地図:塩原
塩原ビジターセンター南の旧御料林で標石の探索の帰途、鹿股川(かのまたがわ)に面した塩原病院の裏でこの標石を見ました。一辺15、地上高44センチメートル、刻字は「海軍用地」、上面は刻印がありません。この地は1939年(昭和14)に 傷痍軍人塩原温泉療養所が設立され、のち国立塩原温泉病院、現在は塩原病院になっています。同じ標石が200メートルほどの範囲に計3基あり境界を示す標識と思われます。
渡良瀬川堤防の県界標石
地図:古河
渡良瀬川の遊水地は茨城、埼玉、栃木、群馬の各県が複雑に寄り合っています。三国橋から北へ1キロメートル、雀神社を過ぎたあたりの堤防で県界標石を見ました。古河ゴルフ場の北端になります。一辺18、整形部高さ30、全体の地上高さ60センチメートルで南面は「茨城縣」北面は「縣界」の刻字がありました。栃木県との県境を表しています。堤防東にも同じ標石がもう1基見られました。
石廊崎灯台の境界標石
地図:石廊崎
伊豆半島の先端、石廊崎灯台の進入路のきわにあります。一辺15、地上高さ22センチメートルで上面には小さな穴が開いています。側面の刻字は「逓信省」とありました。
石廊崎灯台は1871年(明治4)に設置、点灯されましたが、この年に工部省燈台寮が発足し灯台業務を所管することになりました。1885年(明治18)には逓信省燈台局になっています。そのご変遷はありましたが現在は海上保安庁の所管です。
敦賀市陸軍省境界標石
地図:敦賀
敦賀市南部の「山」という集落の民家庭先で見つけました。一辺18、地上高さ60センチメートルの角柱で上面に+の右横棒と下縦棒が刻印されており側面には「陸軍省」の刻字があります。元位置ではなく移設されたようです。「山」集落のすぐ北には終戦まで敦賀連隊があり1898年(明治31)には歩兵第十九連隊が、1940年(昭和15)には歩兵第百十九連隊が置かれてました。
京都大文字山の御領山境界標石
地図:京都東北部
お盆の送り火で知られている京都大文字山には送り火の火床からさらに東に登ったところに三等三角点「鹿ヶ谷」5235−46−1501があります。このあたりは「如意岳城」といわれている15世紀中ごろに構築された城があり、いまも土塁などが残存しています。この北側100メートルほど下の山腹に「白川」横右書き、「従是御領山」縦書きの刻字があり横幅18、厚さ3〜10、地上高さ30センチメートルの標石が見つかりました。50〜100メートル離れて計3ヶ所、確認しました。
この標石は北白川仕伏町にあった旧照高院宮(北白川宮)家の山林境界のようです。確証はありませんが明治初期に設置された標石のように思われます。照高院宮は明治維新後、還俗され北白川宮家を創設されましたが、その後東京に移され現在は墓地しか残っていません。照高院御領高として白川村壱千石、山林二百町歩の記録があります。[白裕:愛郷 第十二号 昭和46年11月 北白川愛郷会 1971 p28]
標石は山腹にあり途切れ途切れの踏み跡がありますが現在、京都市左京区の浄土寺(北側)と鹿ケ谷(南側)の境界になっているようです。
亀岡岩石峠の境界標石
地図:埴生
亀岡市の小和田山(611.7メートル)を加舎の里ゴルフ場西端の岩石峠から登る尾根筋でみつけました。亀岡市は1955年京都府南桑田郡の亀岡町と周辺15ヶ村が合併してできましたが、この標石の所在地は旧本梅町村と旧畑野村の境界にあたります。「堺」の字が鮮明で美しく刻字されていたので記録に留めました。
大阪城、北西の陸軍標石
地図:大阪東北部
大阪城の北西端に追手門学院中・高等学校がありますがその正門の西側歩道に面しています。上町(うえまち)筋の大手前歩道橋の北東の階段を降りたところです。一辺15、地上高さ27センチメートルの花崗岩で西面には「陸軍」の刻字があり上面は+の刻印と「1)」のような不鮮明な文字が彫られています。境界標石と測量の基準点を兼ねたものと思われます。このあたりは大阪城内も含め戦前、陸軍の施設が多数あったところです。標石の背景にある赤レンガも昔のままのようです。
室戸岬灯台の境界標石
地図:室戸岬
室戸岬の灯台を管轄している第五管区海上保安本部室戸岬航路標識事務所のへいの周囲で見つけました。境界を示す標石で測量標石ではありませんが漢数字と波形の刻印があまりにも芸術的に美しく彫られていたので写真にとどめておきました。同敷地は旧陸軍の所有地で戦後、海上保安庁に移管されており旧陸軍がこの標石を設置したのではないかと思われます。なお室戸岬の灯台は1899年(明治32)に初点灯されています。
長崎女神検疫所境界標石
地図:長崎西南部
女神大橋から大久保山への登山道で長崎(魚見岳)台場跡から、ほんの少し上った右側(南)にあります。もう一箇所さらに上った左側(北)にも同じ標石が見られますが写真は下の方です。一辺15、地上高さ52センチメートルの角柱です。北面には「女神検疫所境界」の刻字があります。これらと同じ標石が近くにまだ数箇所あるそうです。
女神検疫所は1880年(明治13)に開設され、長崎港口で伝染病の予防、病人の隔離などをしました。この検疫所の前身は「消毒所」といわれ1884年(明治17)測図の陸地測量部一万分一図「深堀村」には、まだ「消毒所」の名称が載っています。
長崎外国人居留地標石
地図:長崎東南部
長崎は山に囲まれ、高台への道にはオランダ坂という石畳や石段が多くあります。東山手町一帯は外国人居留地であったことから境界や番地を表す標石が残っています。
写真は活水学院本部(活水女子大学)の周辺で見つけたもので同学院正門に隣接して「十三番」の刻字がある幅18、奥行10、地上高40センチメートルの標石、その南向かいの石塀にはめ込まれた「No.13A ○二五番」(○は判読不明)の刻字がある幅29、地上高40センチメートルの標石があり学院の裏手には「留地境」(居の文字部分は破損)の刻字がある一辺20〜27、土台からの高さ140センチメートルの標石がレンガ塀に密着して残っています。旧外国人居留地は南山手町にもあり標石を探せばまだまだ、ありそうです。
長崎要塞地帯標
地図:長崎西南部
土井首町から三和町をへて八郎岳へ向かう大崎林道から、わずか入り込んだ鹿尾町植林地にあります。鹿尾ダムの南西500メートル、林道のすぐ南です。
標石は一辺15、地上高さ62センチメートルで正面には「2ndZ」と横書き、「長崎要塞第三地帯標」と縦書き、この左側面には「第十八号」、道に面した右側面には「明治三十二年六月十日」、裏面には「陸軍省」と刻字があります。「2ndZ」はSecond Zoneの意とすると「第三地帯」と矛盾しますが、この刻字部分が少し凹んでいるため後年、改められたとも考えられます。長崎要塞地帯は1898年(明治31)から神ノ島の砲台をはじめとして軍事施設が建設されました。
由良要塞地帯標
地図:加太
和歌山市加太から汽船で20分のところにある友ヶ島の野奈浦桟橋の前にあります。観光用に目立つところに砲弾とともに置かれており元位置ではないように思えます。標石は一辺15、地上高さ115センチメートル、上面角錐で西面(正面)には「6M 1○」と横書き、○は判読不明、「由良要塞 第一地帯標」と縦書き、北面は「海草郡第十五○」○は判読不明、東面は「陸軍省」、南面は「明治三十二年八月」と刻字がありますが彫りが浅く読み違いがあるかもしれません。
友ヶ島は明治後期から第二次大戦終了まで大阪湾防衛のため陸軍の由良要塞の一部になっていました。 由良要塞は1892年(明治25)に和歌山県田倉崎と兵庫県洲本市由良の間の狭い紀淡海峡を挟んで淡路島の由良、和歌山の友ヶ島、加太、深山地区に築造されました。友ヶ島には砲台が6ヶ所にありましたが現在もレンガ造りの遺跡が残っています。
要塞地帯は施設のある区域を第一地帯とし一定の外周を第二地帯、さらにそれを取り囲む区域を第三地帯というように三重にし地帯ごとに測量、撮影などの厳しい制限がありました。この標石の刻字だけでは境界を表す標識か、境界内部の所属を示す標識かは不明です。