御料地・国有林境界標石

御料局の境界標石は「界標」とよばれ附属標として「探求標」と「指導標」が1899年(明治32)の御料地境界踏査規程(御料局長達第六五二二號)に定められており「宮」の記号が刻印されています。「宮」のウ冠は広く丸みを帯びており宮内省を意味します。境界測量によって設けられた界標は当初は標石にかえ木柱(木標)が多く使用されたようですが1914年(大正3)以降は界標20点ごとに3点の標石を用い、さらに重要な境界は全部、標石としました。[帝室林野局:帝室林野局五十年史 1939 p646]

「宮」表示の界標については天皇陵にも見られますが写真の説明としてつぎの記述があります。

御料林時代の石標は、山印ではなく宮印が刻んである。旧御料林でも新しく埋設されるものはすべて山印がつけられる [林野庁:図説国有林の境界 地球出版 1965 p72]

戦後、新設される国有林の境界標「山」印のものに統一されています。原則として「山」の字が入っている側が民地で、その背面は点名などが入り国有林側とする基準があります。

矢吹町旧御猟場の境界標石

地図:矢吹

JR東北本線矢吹の北東2キロメートルのところ矢吹町牡丹平に町が命名した「三角点公園」があります。二等三角点「三神村」(基準点コード:5540−67−5701)がありますが、かつて宮内省管轄のの御猟場のあったところで「御猟場職員集合所」の碑が立っています。宮内省の境界標石も残っているのが見つかりました。

西面には○のなかに「呂」の字をいれたような「宮」をデザイン化した記号で南面は「磐城國」北面は「岩代國」と読める刻字がありました。磐城は福島、宮城で岩代は福島地方のことです。

筑波山の山林局境界標識

地図:筑波山

筑波山には多数の登山路があります。今回は梅園の下から北西に延びる林道の最高所から男体山の南西稜を登りました。林道近くには山林局「補點」、頂上近くの自然研究路の直下には山林局「次三角點」があり、この間、数十箇所の自然岩に境界標識が彫られています。写真は「七一」、四角のなかに×印、「山」と刻字がありますが番号のないものなどいろいろな形式が見られます。

塩原の御料局境界標石

地図:塩原

塩原の旧御料林は1891年(明治24)に発足し「塩原第二御料地」が正式名称で地元では「紅葉山御料地」と呼ばれていました。小規模ですが旧御用邸などが近傍にあり関係当局に重視されてきました。現在のビジターセンターの裏山には御料局三角点、御料局測点などとともに界標(境界標識)がいたるところにあります。

「御料局境界点」と刻字のある標石ははじめて見ました。御料林の南端で国土地理院の三等三角点「塩ノ湯」5539−36−4701の南のピークで「御料局測点」の傍にあります。一辺12.5、地上高さ18センチメートルで多孔質の岩石が加工された標石でした。北面は「御料局境界点」、南面には「五八号」の刻字が見られました。

ビジターセンターからつづく遊歩道入口近くと鹿股川(かのまたがわ)にかかる仙人岩吊橋には自然石に×印がある界標が見られました。森林管理署では「固着岩石」と呼ばれています。赤く塗装されているのは現在も国有林の境界標石としてつかわれているからです。[林野庁塩那森林管理署:塩原御料林史 2004 p16]

八ヶ岳の御料局境界標識

地図:蓼科

八ヶ岳の縦走路には多くの御料局境界標識が見られます。刻印、刻字のある標柱や岩盤の上面を平らにして×を刻印したものなどあります。これらは赤ペンキがスプレーされ現在でも森林管理局のものになっているようです。

写真の事例では縞枯山と北横岳北峰の標柱は旧宮内省を表す「宮」の字をデザイン化したものと反対側の面には「界己二三七」(縞枯山の例)などと番号が刻字されています。また北横岳登山道でみかけた自然石は16センチメートル角を平に削り×印が彫られています。この自然石のような例は三角点とされた可能性もあります。[御料局:御料地測量規程 第一二一七號 1894 第壹圖式 大阪市立中央図書館蔵]

塩見岳登山道の御料局境界標識

地図:塩見岳

長野県大鹿町、鳥倉林道の塩見岳登山口から三伏峠に向かう中間、通称「豊口山のコル」でみかけました。南面は宮のマーク、北面は「界乙四三〇」と読めました。塩見岳西峰山頂には国土地理院所管の二等三角点「塩見山」5338−21−8401とともに御料局三角点(四等)が残置されています。

新城市棚山の御料局境界標識

地図:海老

愛知県東端近くの鳳来寺山から宇連山(うれやま)への稜線の中間に棚山国有林がありますが主稜線上に境界標石が点在しています。標石、標杭などは、ほぼ見通しのきく間隔にありトラバース測量により設置されたものと思われます。

写真上段は「界八三支二」と記された現行の標示杭のそばに×が刻まれた標石で南面には「界支」まで読める刻字があります。また東隣には「鳳」と刻字された石杭があり鳳来寺か鳳来町の境界が示されているようです。

写真中段は「界八四支一三」で尾根筋の自然石にモルタルが塗られ、ひと文字ごとに縦2、横4センチメートルの刻字されたタイルが貼り付けられています。6枚分のタイルで全長13センチメートルあります。

写真下段は「界一」で鳳来寺山、宇連山の縦走路から瀬戸岩への分岐にありますがこの標石には北面に「宮」の字をデザイン化したもの、東面には「玖老勢 鳳来○門谷」、西面(写真正面)には「海老町○川 鳳来寺副川」(○は判読不可)と所在地を示す刻字があります。

以上は典型的な境界杭を挙げましたが、ほかにもバリエーションはあります。ほとんどの標識は赤い塗装がされているので現在も有効な境界標識と思われます。なお近傍には「界八四支一五」の境界標識として巨岩に刻まれた珍しい御料局の三角点がありますが、これは御料局三角点のところで紹介します。

宝塚市北中山国有林の境界標識

地図:宝塚

宝塚市の中山寺から奥之院へ向かう北西の尾根は近畿中国森林管理局、兵庫森林管理署の北中山国有林になっており境界標識(界標あるいは図根点)が見られます。写真下段は三等三角点「中山寺」5235−12−8901の北80メートルの地点、道の右に見られます。自然岩に「二〇八」、+印、「山」が全長60センチメートルにわたり刻字があります。

写真上段は同尾根筋にある夫婦岩から北へ100メートルの地点、道の右に見られます。自然岩に「二」、+印、「山」が全長60センチメートルにわたり刻字がありますが「二」と「山」の文字の頭は+方向に向かい合っており標柱を真上からみて平面に投影したようになっています。

このあたり松林と雑木がつづきますがマツクイムシの発生により枯れ木が目立ちます。森林管理局が伐採をしていました。赤いスプレー塗装は最近、境界巡視をした証拠です。

京都市内陵墓の境界標

地図:京都東北部

京都にはおおくの陵墓があり、独特の境界杭によってその区画が明らかになっています。はっきり「宮内省」と刻字のあるものや「宮」の字をデザイン化したもの、近年では金属標もあります。写真は京都市左京区吉田にある陵墓2ヶ所のものです。用地にすこしでも曲がり角があればこのような杭が埋設されています。

清和天皇火葬塚については帝室林野局で1928年(昭和3)に測量された地形図があります。これには境界杭の位置が明らかになっており「縦横距原點 陸地測量部二等三角点鷹峰」と記載され陸地測量部の三角点を基準にした座標位置も載っています。[宮内庁書陵部陵墓課:陵墓地形図集成 学生社 1999 p59]

京都御苑(御所)の探求標

地図:京都東北部

京都御所の北西角付近、烏丸今出川交差点を東へ約40メートルの石垣上にあります。一辺12センチメートル、地上高さ15センチメートル、花崗岩の角柱で上面はT印が南面は「宮」の字をデザイン化したもの、西面には「探求標」、北面は「界二」の刻字があります。東面には刻字はありません。後日、同形の標石が御所の各隅、石垣上で見つかりました。出町近くの御所北東角から3メートル南には「界一七」、寺町丸太町の御所南東角から20メートル北に「界三」か刻字不明瞭、烏丸丸太町の御所南西角から北へ20メートルに「界二」があります。烏丸丸太町の分は烏丸通り歩道から見えますが閑院宮邸跡の裏にあたり石垣に上がることはできません。そのほかは内側から石垣に容易に到達できます。

京都御所の場合は本来、境界標(界標)を埋設すべきところ用地が直線で囲まれた四角形なので目立つような多くの界標は設けず四隅の近くに探求標を設置して地図上に明示したものと思われます。京都御所一帯は明治維新後、荒廃しましたが1877年(明治10)以降、京都御苑として整備されています。

大津の官林境界杭

地図:京都東南部

大津市の小関越近くの三角点と菱形基線測点を探しに行ったときに見つけたものです。字体からかなりの年代ものと思われます。刻字の「別所官林」は琵琶湖疏水着工時1885年(明治18)の記録にあります。この辺り今も大津営林署の所管になっています。

宇治田原の官林境界杭

地図:朝宮

京都府宇治田原町と滋賀県信楽町の府県境でみつけました。裏白峠から黒山(510.1メートル)への尾根筋で518メートルの標高点付近です。このあたりは地元では飯尾山(いのおやま)と呼ばれています。標石の南面には「○津尾官林」(○は判読できず)北面は「界第壱号」(第の字は古字)の刻字があります。この尾根筋には同様の境界杭がもう一つとさらにプラスティックの新しい境界杭が多数ありました。


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