旧樺太(サハリン)の日露国境標石

日本・ロシア間の国境については1854年(安政1)下関での日露和親条約交渉でロシア側(代表プチャーチン)から提起され千島については択捉島とウルップ島のあいだを境界とし樺太は日本側代表の川路聖護(かわじ・としあきら 1801〜1868)が北緯50度を提案しましたが結局、所属を決めない国境未画定地になりました。そのご明治新政府になってから北緯50度での分割を提案しましたがロシアは応じませんでした。[岡崎久彦:小村寿太郎とその時代 PHP 1998 p117]

日露戦争後の1905年(明治38)ポーツマス条約で樺太の北緯50度以南を日本が領有することになりました。翌1906年(明治39)から1908年(明治41)にかけて天文測量による日露両国の国境画定作業がおこなわれ東のオホーツク海沿岸から西の間宮海峡側までの、おおよそ130キロメートルの間に4基の天測境界標、17ヶ所に平均6キロメートルごとに中間標石、19ヶ所に木標がたてられました。また国境全線にわたり幅6メートルの林空が開かれました。国境画定の日本側委員長は陸軍砲兵大佐、大島健一(1858〜1947、のち陸軍大臣歴任)、ロシア側委員長は参謀大佐リレーエフ(当初は参謀中佐ウォスクレセンスキー)で日本側にはわが国で初期の三角測量に尽力された陸地測量師、矢島守一(やじま・もりかず 1845〜1922)は委員として、また東京帝国大学理科大学助教授、平山清次(ひらやま・きよつぐ 1874〜1943)も属員として参加しました。平山は小惑星の族の研究で木村栄のz項とともに国際的評価を得た天文学者です。[樺太境界劃定委員:樺太境界劃定事蹟 陸軍省 1910 p5−9]

当時の現地作業の様子は樺太境界劃定委員編集の「樺太境界劃定事蹟」や陸地測量部部内誌「三五會會報」の「樺太通信」にも著されていますが日本側委員に同行した志賀重昂(しが・しげたか 1863〜1927 地理学者)、1906年(明治39)の日記には日露委員の活躍状況が詳しく記されています。志賀特有の美しい文章で文学作品としても評価されています。

六月二十八日(木曜)晴。(中略)會々天上には鰯雲列(つらな)りて、陰暦五月七日の月は皎々と冴え渡り、シァコタン松の海を照らして、銀涛萬頃、其上よりエングイス山の残雪の反映する處、天地蕭瑟(しょうしつ)萬籟寂然たる折柄、地上にては、唯だ日本金櫃護衛兵二名が非常を警戒して嚴肅不動、宛がら死者の如く直立するを見るのみである。[志賀重昂:大役小志 樺太境界劃定(宿泊)1909 p1079]

八月十二日(日曜)晴。(中略)此夜晴朗、長空一碧、星斗歴々、第三天測點は豫定以上の觀測を了り得。 [同(日記)p1020]

八月二十五日(土曜)晴。(中略)ボロナイ川岸の第二測點に達し、馬を下ると、此處には日本の石工が汗を拭ひつつ境界標石を彫刻して居る。これは参州岡崎の北に産せし最も堅き花崗岩にて、南面には日本領とて菊花の御紋章、北面には露國領として雙頭の鷲を刻るのである、丁度南面の菊花と『大日本帝国境界』の文字が刻り上がり、而かも見事に出來上がりたれば、予は石工の頭領(和田)に向ひ、善く刻れたなーと喊(わめ)くと頭領には、ハイ、一生一代の事で御座いますから刻下(ほりした)の版紙丈ケ紀念に頂戴致したう御座りますと云う。[同(第三天測點劃定行) p1116]

公式記録である樺太境界劃定委員編集「樺太境界劃定事蹟」では樺太の現地に設置された標石は天測標石、中間標石とも青森県産出の花崗岩で青森で粗工され現地で彫刻されました。天測標石は100〜180キログラム、中間標石は90キログラムになっています。[樺太境界劃定委員:樺太境界劃定事蹟 陸軍省 1910 p166]

九月三十日(日曜)晴。(中略)九時半、第二天測點著、去る十七日竣工せし境界大標石を見る、南面(日本領)の菊花章、神彩奕々(えきえき)、北面(露領)の雙頭鷲、瞳光爛々[志賀重昂:大役小志 樺太境界劃定(日記) 1909 p1042]

志賀の日記によれば現地で日本側とロシア側委員との宴会がよく開かれ、シャトー・イケムなど上等のワインが供されたようです。

明治神宮絵画館と札幌開拓神社の国境標石

地図:東京西部、札幌

右の写真は天測境界標第四号の複製品ですが明治神宮聖徳記念絵画館に1926年(昭和元)に旧樺太庁から寄贈されたもので現在は絵画館正面の西側駐車場奥に設置してあります。標石の大きさは高さ64、正面幅30〜50、側面幅18〜30センチメートル程度で将棋の駒のような形になっています。標石の一面には菊の紋章と「大日本帝国」、「境界」の文字、他面にはロシア帝国の双頭鷲紋章とキリル文字でロシア(РОССiЯ)、1906、グラニツェア(ГРАНИЦА 国境)の文字、側面には「天第四號 明治三十九年」、反対側面もアストロ(АСТР 天測)の刻字が、また頂部台形のところには「模造」の刻字があります。

天測境界標は全部で4基設置されましたが1970年代に日本の北方領土返還要求に反発した旧ソ連国家保安委員会により標石の撤去が指示されました。

「天第一號」はオホーツク海側の旧遠内海岸近くありましたが1987年(昭和62)に国境警備隊が撤去、台座も破壊されました。標石はユジノサハリンスク(豊原)のサハリン州立郷土博物館(元樺太庁博物館)にあります。「天第二號」はポロナイ川(幌内川)右岸付近にあり1994年(平成6)に銃弾の跡がのこる標石を現地住民が確認、1997年(平成9)根室市郷土資料保存センターに移転されました。

「天第三號」は中部スミルヌイフ(気屯)の北30キロメートル、国境を縦断する街道付近にありました。1938年(昭和13)当時の人気女優、岡田嘉子と演出家、杉本良吉が国境を強行突破しソ連領内に駆け込んだ事件はこの付近といわれています。標石は1949年(昭和24)に撤去されユジノサハリンスクのサハリン州立博物館に移転され「天第一號」とならべて展示されていますが、この「天第三號」は日本の旧樺太庁が作った複製で台座は現地に放置されています。「天第四號」は間宮海峡側のボズウラシチェニエ(安別)にありました。1930年(昭和5)以前に標石の刻印、双頭鷲紋章が何者かによって削り取られた、いわく付きのものです。当時の樺太安別青年団発行の絵葉書によると1925年(大正14)日本軍が樺太北部から撤退後、同年ソヴィエト連邦政府(1922年設立)によりこの紋章の上部が削除されたという説があります。1985年(昭和60)に現地営林署が破壊、運搬途上で船は沈没したそうですが標石実物はサハリンにあるともいわれています。

天測境界標のいきさつについては諸説あり種々文献を参考にしました。[山岡光治:帰ってきた日露国境標石「地図ニュース」311 日本地図センター 1998.8 p23−25]、[田村勝正:旧樺太(サハリン)の日露国境標石 日本大学地理学会 平成11年度秋季学術大会発表資料 1999][北海道新聞 1994年(平成6)8月22日、1997年(平成9)9月17日付けの記事][北海道新聞社:サハリン 北海道新聞総力ガイド 北海道新聞社 2001 p76、140、150]

またユジノサハリンスクの博物館に展示されている標石はJTBのガイドブックに写真が載っていますが「天第一號」(実物)の大きさは「天第三號」(複製)にくらべてかなり大きいようです。[徳田耕一:JTBワールドガイド サハリン JTB 2002]

明治神宮聖徳記念絵画館には安田稔(やすだ・みのる 1881〜1965)によって描かれた「樺太國境劃定」の壁画が展示されています。1932年(昭和7)12月に制作され日本石油株式会社により奉納されたものです。寸法は縦2.7メートル、横2.5メートルになっています。日露の両国陸軍が標石を設置している様子が描かれています。標石が地中に設置されていることや頂部の台形のところがなく角錐のようになっていたり正確なものではありませんが美術品としては傑作です。[明治神宮奉賛會:明治神宮外苑志 1937 p521]

明治神宮聖徳記念絵画館にある標石と同様のものは札幌の開拓神社脇にもあります。地下鉄円山公園から徒歩10分、北海道神宮の森の中です。1973(昭和48)に建立された高さ8メートル程度の樺太開拓記念碑の南隣にありますが、これも天測境界標第四号の複製品でサイズ、刻字も同じです。また函館立待岬の近くにある石川啄木一族の墓石はこの標石をモデルにしたといわれていますが、わたしの見たころ国境標石より巨大で中央に「東海の小島の磯の・・・」の歌詞の石板がはめ込まれていました。

小樽水天宮の中間標石

地図:小樽東部

中間標石のほうは小樽市相生町の水天宮境内にあります。1991年(平成3)3月降雪のあった日のことですが、わたしは日露の国境画定会議がおこなわれた旧日本郵船小樽支店を見学しその後、水天宮に行きましたが積雪のため見られませんでした。宮司さんの話では確かにあるとのこと、2001年(平成13)6月、10年ぶりに小樽を訪れましたが間違いなく現物を見てきました。なお国境画定会議は第1回会議は1906年(明治39)6月にロシア領歴山港で行われており小樽での会議は同年11月です。[樺太境界劃定委員:樺太境界劃定事蹟 陸軍省 1910 p15,26]

中間標石は小高い丘上にある水天宮本殿の内陣(屋外)にあり立ち入ることはできませんが周囲にめぐらされた、へいの格子から覗くことができます。また近くには小樽市当局の設置した説明板が設置されています。天測境界標とほぼ同形ですが大きさはひとまわり小さく、触れられないのでよくわかりませんが高さ50、正面上幅30、側面下幅20センチメートル程度と推定されます。片面に「第 號」と刻字があるのみです。説明板によると1931年(昭和6)に小樽公園から現在地に移設されました。国境標石は当時すべて小樽港から積み出され、その縁の地にのこっているのですが水天宮の中間標石は後年つくられた模造品ではなく当時余分に製造された実物です。また水天宮山上には当時の水路部が1893年(明治26)に設置した経度標があり国境画定に際し経度の基準とされました。右の写真では中間標石の手前左側にあります。

樺太の現地に設置された標石は天測標石、中間標石とも青森県産出の花崗岩で青森で粗工され現地で彫刻されました。天測標石は100〜180キログラム、中間標石は90キログラムになっています。[樺太境界劃定事蹟 同上]

標石設置当時の写真

「樺太宣傳寫眞普及会本部 樺太日露國境画定事績記念寫眞帖 明治三十七年−仝四十年 遠藤寫眞館」と表紙に記載された写真帖が刊行されています。この写真帖の発行年は明記されていませんが写真の内容は国境標石設置当時のもので大正か昭和初期にかけて刊行されたもののようです。この写真帖を所蔵されている北見市在住Tさんのご好意により一部を掲載します。敷香(現ポロナイスク)の「遠藤寫眞館」が撮影した当時の写真は絵葉書にもなっており、いまなお古書店などで見られます。

上の写真は安別にある第四天測点の観測台ですが天測境界標(標高152.6メートル)とはべつの標石のようです。海が写っていることから西端に位置することがわかりますが、この位置には日本天測点、露国天測点、第四天測境界標と、これより260メートル西に交通頻繁な西海岸で境界を一層明確にするため設置された第十七号中間境界標があります。

中の写真は老熊山(おいくまやま)の中間標石(標高667.2メートル)設置状況です。測標の上から錘を吊るし標石の中央に合わせています。標石の番号は「14」が刻字されています。

下の写真は19ヶ所に設置された中間標木のうち第二天測点付近「境村」(当時の測量従事者がつけた名称)のもので40センチメートル角、地上高さ2.5メートルの木柱です。南面は菊の紋章と「大日本帝國境界」、北面はロシア帝国の双頭鷲紋章とキリル文字で「РОССiЯ」ロシア、「ГРАНИЦА」グラニツェア 国境)、1907の文字が書かれています。ロシア革命と同時に双頭鷲紋章の双頭部分が削られたそうです。

文芸作品にあらわれた国境標石

北原白秋は1925年(大正14)に樺太を訪れ紀行文を出版しています。そのうち「安別」のところに標石のことが描かれています。場所が安別ですから「天第四號」の標石と思われます。

太い丸太と無雑作な二坪ばかりの周囲の柵があった。その柵は朽ちかけて、既に外皮のところどころはボロボロにくずれかけていた。その中に日本と露西亜との境界標石が厳然と立っているのだ。正方形の台座に据えられた鼠いろのその標石は高さ二尺にもみたないであろう。北面に鷲、南面に菊の御紋章が浮彫りにしてあった。わたしは露西亜領の虎杖の草叢にもはいって見た。[北原白秋:フレップ・トリップ 岩波文庫 2007 p122]

1938年(昭和13)1月、岡田嘉子、杉本良吉の「天第三號」からの越境は当時の日本の社会からみて大事件でした。杉本は1939年(昭和14)に銃殺され岡田は1992年(平成4)にモスクワで亡くなりましたが死後、早々に小説が2編出版されています。升本喜年と西木正明の作品でともに文藝春秋社刊です。

後ろの巡査たちも気づいて、必死に追いかけた。(中略)二人は腰まである深い雪のなかを、まるで泳ぐかのようにして駆けていく。北緯五十度、東経一四二.七度の天測点三号は、もう眼の前である。嘉子が倒れた。杉本が救け起し、二人で手を取りあって駆ける。手にしていた手提鞄も、マフラー代わりに首に巻きつけているセーターも投げ捨てた。「国境をこえたぞッ!」杉本の叫びを残して、二人の姿はソ連領の闇に消えた。[升本喜年:女優 岡田嘉子 文藝春秋 1993 p138]

これが、日ソの国境を示す天測境界線です。こちら側には、かしこくも菊の御紋章、向こう側には、かつて帝政ロシアの双頭の鷲の紋章が彫られていましたが、革命の後、削り取られて、現在のソ連国旗と同じ、鎌と槌が刻印されております。ご覧のように、国境といいましても、とりたてて鉄条網をはりめぐらせたり、垣根を作ったりしてあるわけではないのです。もちろん監視はきわめて厳重ですが、そうした警戒の網の目をすりぬけて、ソ連側から我がほうへ密入国する者があとを絶ちません。[西本正明:丁半国境 文藝春秋 1993 p42]

地図に表わされた旧日露国境線(北緯50度)と標石

樺太の日露国境がはじめて地図になったのは明治四十年測圖、明治四十四年製版「假製樺太南部五万分一」樺太境界劃定委員、陸地測量部発行です。この地形図は8面あり描画範囲は海岸と北緯50度腺の南3〜5キロメートル程度であり図名と国境関連の標識名は東(オホーツク海側)から西(間宮海峡側)へつぎのとおりになっています。

「鳴海」 日本天測點、第一天測境界標、第一、二號中間境界標、
「駱駝山」第三、四號中間境界標、
「沖見山」第五、六、七號中間境界標、
「苔桃山」第八、九號中間境界標、
「幌見峠」日本天測點(2ヶ所)、第二、三天測境界標、第十號中間境界標、
「黒髪山」第十一、十二號中間境界標、
「逢見山」第十三、十四號中間境界標、
「安別」 日本天測點、第四天測境界標、第十五、十六、十七號中間境界標

記号は境界標は○の中央に・、天測點は☆、水準点は□の中央に・になっています。また國界標木というのがあり冂を細長くしたものを凸形に組み合わせた記号になっています。水準点と國界標木はある図とない図があります。これら地図では「オホーツク海」を「オコツク海」、「間宮海峡」を「韃靼海峡」と表現されています。

気のついた点としてまず日本天測點と天測境界標は地図上では位置が異なっていますが、このことは天測を行った位置と天測にもとづき国境を定めた地点が異なることによります。日本天測點の近くの別位置には露国天測點もあるのですが「假製樺太南部五万分一」には載ってなく「樺太境界劃定事蹟」の付録地図には明記されています。それぞれ構築物がありましたが現在は基礎など残っているかどうか不明です。「鳴海」の図では日本天測點が第一天測境界標の南になっていますがその他の図では日本天測點が天測境界標の北になっています。また中間境界標はたとえば一、二號間6.5キロメートル、二、三號間10.3キロメートルで等間隔になっていません。山頂など見通しの良い場所に設置されています。さらに國界標木は19ヶ所あることになっていますが不鮮明な地図上では18ヶ所しか見当たりません。(鳴海1、駱駝山4、沖見山6、苔桃山4、幌見峠1、黒髪山1か、安別1)

ついで昭和九年陸軍航空本部撮影同十年製版、「軍事極祕二万五千分一樺太空中寫眞測量要圖」参謀本部陸地測量部発行では国境の地形図は「浅瀬」はじめ全面描画されています。ここで注目したいのは国境線が最北端(地図の最上部)ではなく200メートル程度南になっており「天測ニヨル北緯五十度」と注書きがあります。これは東京を経緯度原点として北海道をへて昭和初期に延伸された一等三角網による測量(測地緯度)と明治末期の日露国境画定の際、天文観測による結果(天文緯度)の差になっています。東京の原点はプレート・テクトニクス(大陸や大洋底相互の位置変動)による影響が大きく鉛直線偏差(鉛直線が地球の中心からずれる)が地球全体と比べると大きいため当然の結果です。しかし当時、一般にはこのことが理解され難く日本は過誤によって領土を失ったのではという批判もありました。2002年には日本は世界測地系に変更されているので、このような誤解は今後ありません。[平山清次:樺太の國境線 「地圖」 陸地測量部 1944.6 p32−33]

その後の昭和十七年測圖(空中寫眞測量)、「軍事極祕應急圖二万五千分一地形圖」参謀本部発行では国境の地形図は「浅瀬」はじめ15面にわたり、かなり詳しい地形が描かれ東端の「浅瀬」では明治末期の地図にある「日本天測點」の位置には「国境監視所」があり「第一天測境界標」は「第一天測点」と標示がかわり□の中央に・の水準点記号がついており35.14メートルの標高が表示されています。また「第一號中間境界標」には三角点記号がついており221.2メートルの標高が表示されています。「オコツク海」は「オホーツク海」になっています。(「韃靼海峡」はどのように表現されているかわかりません)国境線は最北端(地図の最上部)から280メートル程度南に後退しています。この地形図は五万分の一でも発行されており終戦まで存続したものと思われます。

以上はわたしの入手した地図からの判断で、ほかにも気がつかない異変があるかもしれません。現在の日露間の国境のことですが2002年(平成14)現在では中学校用の地図には宗谷海峡とサハリンの北緯50度の両方に記載がありサハリン南部については

かって日本が領有していたが、現在は帰属が未定になっている [帝国書院:新編中学校社会科地図最新版 2002 p141]

とありました。1951年(昭和26)の「サンフランシスコ平和条約」(ソ連は調印せず)で日本は南樺太と千島列島を放棄しましたが、それがどこに帰属するかは未定という見解のようです。帰属決定の国際会議が未開催であることは事実です。[山田吉彦:日本の国境 新潮社 2005 p173]


■Top of this Home Page
■Next Page

[PR]今流行りの携帯ゲームは?:完全無料でずっと遊び放題だよ