三角測量、水準測量とも内務省ですでに着手されていましたが参謀本部はそれを引き継ぎ1883年(明治16)頃から本格的に実施されました。当時、測量技術研究のためドイツ留学から帰国したばかりの田坂虎之助陸軍工兵大尉の影響が大きかったとされています。田坂は広島藩出身で1870年(明治3)北白川宮能久親王(きたしらかわのみや・よしひさ 当時は伏見満宮、ふしみ・みつのみや 1847〜1895)の軍事教育のためのプロシア(ドイツ)留学に随行し1882年(明治15)に帰国しています。[西田文雄:わが国の三角測量を創業した田坂虎之助「国土地理院広報」 国土地理院 2008.4 p12、2008.5 p5][測量・地図百年史編集委員会:測量・地図百年史 日本測量協会 1970 p608]
三角測量や水準測量の実施方法については1901年(明治34)になってから「三角測量法式 草案」(水準測量も含まれています)が作成されていますが、いわゆるデファクトスタンダード(事実上の標準)であり1906年(明治39)ドイツ留学から帰国した杉山正治陸地測量師により根本的な改正に着手され最終的には1915年(大正4)に「三四等三角測量實行法」、1916年(大正5)に「水準測量實行法」、1917年(大正6)になって「一等三角測量實行法」が作成されました。しかし、この時点では日本の三角点は北海道の一部をのぞきすべて設置済みでありこれらの実行法の内容すべてにもとづいて設置された訳ではありません。
三角測量
参謀本部測量課は1881年(明治14)東京湾で試験的に三角測量を実施しました。この測量では関定暉工兵大尉、中田時懋砲兵中尉、矢島守一、三原昌などが参加しました。基線は安房国平郡(安房郡)北條、川名両村間に3.4キロメートル、点検基線として上総国周准郡(君津郡)富津、篠部両村間に3.3キロメートルを設定し、三角点は13ヶ所に設け標石を埋設しています。三角測量と同時に従来の平板測量(沿革誌では「図解的三角図根」と表現)の比較も行なわれました。その結果、三角測量の高い精度が明らかになり従来の図解図根測量では広範囲な地域に適用できないことが判明しました。[陸地測量部:陸地測量部沿革誌 1922 p25、附圖第8圖]
一等三角測量は1882年(明治15)に着手され隠蔽地の多い関東地方は後回しになり東海道から近畿、九州へと進みました。一方、内務省地理局では一等三角点の選点、観測が進行中でしたが、その結果を待たずして参謀本部は一部の地域で二等以下の三角測量を開始しようとし1883年(明治16)には相模野基線を設定して二等三角網に大きさを与えることになりました。この時期から二、三等三角測量が行われましたが1883年(明治16)の三等三角測量は翌年に米国で開催される万国子午線会議に提出する地図に経緯度を与えることを目的としていたようです。この測量では三等三角点の位置を決めるための条件を満たしていなかったため測量成果(座標値)は後続の地図作成には使用されず標石は設置されましたが後に撤去されたようです。点の記は三等三角測量第一部として13点があり矢島守一が選定したことや地中標と地上標がともに設置されたことがわかります。第二部12点も同様です。成果記録は1884年(明治17)から残されています。なお正規の二、三等三角測量は陸地測量部が発足したのちですが第一部の地域は1903年(明治36)に第396部として実施されています。[田邉正:国土地理院の標石「地図中心」437号 日本地図センター 2009.2 p9]
参謀本部の三角点はつぎの平均密度と平均辺長の基準で設置されています。
平均密度 平均辺長
一等三角点(本点)1600平方キロメートルに1点 45キロメートル
一等三角点(補点) 800平方キロメートルに1点 25キロメートル
二等三角点 8平方キロメートルに1点 8キロメートル
三等三角点 8平方キロメートルに1点 4キロメートル
四等三角点 2平方キロメートルに1点 1.5キロメートル
樺太、台湾などを除き国土の大部分の一等三角測量は1913年(大正2)に終了しました。この時点で一等三角点(本点)は約330点ありましたが、これを15の三角網に分けられました。三角点が多くなると観測結果からそれぞれの辺長や角などを求める網平均計算が非常に複雑になるからです。当時は対数表と算盤だけで計算をしました。それぞれの三角網には基線が1本の割合で設けてあり、いくつかの三角点を介して、つぎの三角網の基線と連係されています。ひとつの三角網からつぎの三角網の計算に移るときは三角網間の境界は共通点になり、つぎの三角網の与点(既知点)となるので全体としてひとつの統一された三角網になっているのです。
1917年(大正6)には二等三角測量は終り三等は3年後に終了しています。総設置点数は一等本点は330、同補点は637、二等は5,055点、三等は32,772、計38,794点になりました。これらの数値は現状とほとんど変わりません。
初期の測量成果は明治成果と呼ばれます。1915年(大正4)からは北方諸島(国後島、択捉島)で一等三角測量が実施されています。一等三角測量の三角網はつぎの区分(名称と測量年)により設定されています。名称は旧国名の組み合わせで、たとえば武遠三角網は武蔵國にある相模野基線から出発して遠江(とおとうみ)國にある三方原基線に閉合しています。[測量・地図百年史編集委員会:測量・地図百年史 日本測量協会 1970 p80]
名称 測量年
T 武遠三角網 1884(明治17)〜1891*
U 三丹三角網 1885(明治18)〜1888*
V 摂讃三角網 1884(明治17)〜1896*
W 丹伯三角網 1887(明治20)〜1889
X 阿筑三角網 1890(明治23)〜1908
Y 筑隅三角網 1892(明治25)〜1907
Z 常羽三角網 1893(明治26)〜1894
[ 美信三角網 1895(明治28)〜1898
\ 羽越三角網 1894(明治27)〜1899
] 奥羽三角網 1900(明治33)〜1901
]T 奥石三角網 1896(明治29)〜1906
]U 石根三角網 1903(明治36)〜1908
]V 石北三角網 1908(明治41)〜1909
]W 隅仲三角網 1912(明治45)〜1913
]X 千島三角網 1915(大正 4)*
]Y 宜浦三角網 1914(大正 3)〜1917
]Z 埔鳳三角網 1916(大正 5)〜1918*
][ 宜花三角網 1920(大正 9)
]\ 鳳花三角網 1919(大正 8)〜1920*
]] 宗豊三角網 1923(大正12)〜1924*
]]T 豊敷三角網 1926(昭和 1)〜1927*
]]U 国境三角網 1927(昭和 2)〜1932
]Y以降は台湾や樺太が含まれた地域です。*印の測量年は資料により多少異なりますが「測量・地図百年史」によりました。
初期の一等三角測量の平均計算において、基準方向である零方向に補正量を施さないという不備をおかしたまま網平均計算が行われました。零方向の方向角(zero angle)に含まれる標定誤差(零方向補正、zero correctionともいいます)を無視したものです。
実際の観測においては、まず目標の基準方向とする第1方向を視準し経緯儀の水平目盛盤を回転させ概ね0度0分0秒に近い位置で目盛盤を固定します。0秒ぴたりに合わすことは不可能です。そのあとまず第1方向の目盛りを読みとり、ついで第2方向を視準し目盛りを読みとります。したがって零方向の方位角には標定誤差が含まれているのですが、これを無視していたわけです。
しかし、大正時代になってから杉山正治測量師の指摘によりこの不備を正した網平均計算がされるようになり、標定誤差が不備のままの成果を「実用成果」、正した成果を「学術成果」と称されました。実用成果は基本測量や公共測量に広く利用され学術成果は地殻変動の解析など学術分野に利用されました。[藤井陽一郎:陸地測量部測地事業の「実用成果」と「学術成果」測地資料 第5巻 国土地理院測地部 1979 p15][田島稔、小牧和雄:最小二乗法と測量網平均の基礎 東洋書店 2001 p180]
水準測量
参謀本部は1883年(明治16)に東京周辺の精密水準測量を実施しました。これは一等水準測量の始まりとされており100キロメートルの道路沿いに標石が埋められ観測されました。以降、東京、大阪付近から全国へ水準路線が広げられ5年間は毎年500キロメートル程度の観測でしたが陸地測量部になってから年間作業量は約1,000キロメートルになりました。1913年(大正2)には本州、四国、九州、北海道の測量を完了し全国一等水準網の第1回測量がほぼ終了しました。奄美や沖縄までたどりついたのは1917年(大正6)で開始から34年で総延長24,000キロメートルになりました。その後1923年(大正12)の関東大震災を契機として終戦までに北海道を除く大半の改測が行われました。
二等水準測量は1879年(明治12)に全国測量計画が策定されたときから基線や三角点の標高を求めるために行われました。1906年(明治39)までは標石は埋定せず、かわりに標杭や神社の石垣等を使用しました。1907年(明治40)からは特別なケースとして標石設置が認められ1940年(昭和15)までに設置された二等水準点は284点あります。戦後の二等水準測量とは目的も異なります。[測量・地図百年史編集委員会:測量・地図百年史 日本測量協会 1970 p98]
初期の二等水準測量の目的はつぎのようになっていました。
二等水準測量ハ三等三角測量ノ地域内ニ於ル主要ナル道路ニ沿フテ一等水準網ヲ横断(細分)スル所ノ道線測量ニシテ其目的ハ若干三角點ノ眞高ヲ直接ニ測定スルニ在リ之カ爲ニハ眞高既知ノ一等水準點ヨリ起テ他ノ一等水準點ニ閉塞シ或ハ大ナル多角形ヲ畫テ其發起點ニ歸着ス此線路ヲ名ケテ經線ト云フ [陸地測量部:三角測量法式草案 1901 p310]
また二等水準点標石設置の部内基準はつぎのとおりです。
公報 三角科 第二六號
二等水準點標杭中將來有益ノ地ト認メタルモノニ限リ研究ノ爲メ二等水準標石ヲ埋定スル件 伺之通
明治四十年五月九日
[陸地測量部:公報 「三五會會報」拾貳號 陸地測量部 1907 p40]
初期の一等水準点の例
地図:高見山
初期の一等水準点は数多く残存していると思われます。写真は奈良高見山、山頂近くの旧伊勢南街道上にあり標石は20センチメートル角で上面は丸く削られ中央に球分体がありますが点の記によると1888年(明治21)に埋標されています。
初期の二等水準点の例
地図:小田原北部
1884年(明治17)に設置された二等水準点「正UA」がJR小田原の北1.3キロメートルに位置する小田原市扇町二丁目17−20の正蓮寺に残存しています。山門前の「南無妙法蓮華經 現幸山 正蓮寺」と刻字のある碑の下から二段目、側面が整形されていない台石の南東上面に+印が見られます。碑自体は「昭和五年」の刻字があることから後年立て替えられています。+印は一画5.5センチメートルの薄い彫りで地上高さは85センチメートルあります。
この水準点の設置記録は国土地理院に保管されており「二等水準測量第二部 明治十七年度 測量係 正木照信」の簿冊のなかに点の記に相当する「水準測量点の目標 正UA」として図面と地図がでており「神奈川縣相模國足柄下郡井細田村正蓮寺門前ノ右方ノ石塔ノ台石の西南隅十字点」と注記があります。最下段の台石は現在のものと異なり+印のすぐ下に几号(「不」印)があることになっていますが現在はコンクリートと化粧石で覆われており確認できません。この几号は二等水準点が刻印される前に内務省が酒匂川の治水関連で設置したものと思われます。上流の南足柄市文命東堤碑と山北町文命西堤碑にもそれぞれ几号があり、それらの関係は今後の課題です。また同時期に伊豆に設置された二等水準点にも+印のほかT字形の几号があるようですが確認できていません。
饗庭野基線の標高測量につかわれた二等水準点
饗庭野基線は1885年(明治18)に設定されていますが、これに先立ち前年に大阪天保山にあった内務省土木局の水準原点から京都、大津をへて饗庭野まで二等水準測量が行なわれています。現在のような水準点標石はつかわれず、およそ2キロメートルの間隔で標杭(木柱)や神社灯篭などの既設石造物に十字が刻印がされ「主點」とされましたが66ヶ所の「主點」間には20ヶ所の「固定點」とよばれるものがあります。
當水準測量ハ大阪天保山水準原點ヨリ起測シ淀川ニ沿フテ京街道ヲ伏見ニ至リ夫ヨリ大津駅ニ出テ北國街道ヲ今津村マデ進ミ左折シテ饗庭野ニ達ス [参謀本部測量局:二等水準測量第五部(成果表)1884]
先年大阪天保山砲臺ニ於ケル内務省土木局水準原點ヨリ發起シテ施行シタル水準測量ノ結果ヲ用ヒテ基線各部ノ眞高ヲ定メ(中略)以テ基線全長ヲ中等海水面ニ投影セリ [陸地測量部:陸地測量部沿革史 1922 p67(明治18年の事績)]
水準路線は大阪天保山から出発して現在の中央大通り、土佐堀通りを東へ、京橋から淀川左岸の京街道を東へ、枚方の先から京都に入り、八幡から、木津川、宇治川を渡り淀へ、伏見街道、墨染街道を丘陵越えで山科へ、東海道を経て大津、札の辻から北国海道(上記成果表には「北國街道」と記載)へ入り琵琶湖西岸に沿って北上し今津から饗庭野を終点としています。京街道は秀吉によって開かれた淀川左岸堤防上の京都大阪間の道路で、北国海道は京都から日本海への最短路として古代から開かれています。琵琶湖北東岸にも「北国街道」があり、これと区別するため「西近江路」と呼ばれることもあります。
「主點」、「固定點」の標杭は木柱で既に消滅していますが石造物の十字刻印は残存しているところがあります。しかし都市化、道路・鉄道の布設と拡幅などの開発により現在移設、亡失しているものが多いようです。また十字刻印が石造物の最端角の損傷を受けやすい位置にあり石造物が見つかっても刻印の位置が欠損しているものもあります。
つぎに十字刻印が見つかった箇所を揚げますが、これ以外に場所が特定できないものの十字刻印と思われる痕跡があるもの(石清水八幡の灯篭)、十字の一部と思われる人工的な刻みがあるもの(大津市苗鹿(のうか)の灯篭)が見つかりました。
大津市木戸猿子田
地図:比良山
大津市木戸に残存する「主點」です。記録には「45滋賀縣下滋賀郡木戸村字猿子田墓地ノ西外レ南無妙法蓮華經塔ノ最下台石北角十号」とあり標高は118.447メートルになっています。
JR志賀の南西1キロメートルのところ国道161号の山側(西)にあたります。志賀駅から木戸川を越えると間もなく公園と西安霊園という墓地が見えてきます。この墓地の南端には「南無妙法蓮華經」、「經王塔」、「往来安全」などと銘のある花崗岩の碑があり、その最下段台石上面北角に+印が見られます。十字の一画は2センチメートル、地上高さは80センチメートル程度です。
この碑のすぐ北は奈良時代に相撲の技四十八手を制定し行司の始祖と伝えられる志賀清林(しがのせいりん)の埋骨地になっています。
南小松八幡神社
地図:比良山
大津市南小松に残存する「固定點」です。記録には「f48滋賀縣下滋賀郡南小松村五十五番地○宅東角ノ八幡社獻燈籠ノ向テ左ノ方ノ中央台石南角十号」(○は個人名につき省略)とあり標高は105.306メートルになっています。
南小松の八幡神社はJR近江舞子の西800メートルのところ国道161号の西にあたります。神社の参道がはじまる集落の中心地に「御神燈」、「文政十年正月建之」の銘がある高さ約3メートルの灯篭が2基あり、左(南)の灯篭の下から3段目の花崗岩台石の上面北端角に+印があります。記録には「南角」とありますが南角にはなにもありません。十字の一画は3センチメートル、地上高さは60センチメートル程度です。
新旭町饗庭大國主神社
地図:今津
高島市新旭町饗庭に残存する「固定點」です。記録には「p58滋賀縣下高島郡饗庭村大國主神社前向テ右ノ方石燈籠ノ下ヨリ二段目台石東南角上十号」とあり標高は93.670メートルになっています。
饗庭の大國主神社はJR新旭の1.2キロメートル北にあり県道556に面しています。新旭町生活路線バスの停留所が神社の前にありますが表示は「五十川神社前」になっています。正面鳥居の前には灯篭が2基ありますが右(北)の灯篭の下から2段目の花崗岩台石の上面、東南角端に+印が見当たります。十字の一画は3.5センチメートル、地上高さは1メートルです。この灯篭の前は車の通行が多く廃ガスで台石も相当汚れておりアルコールでふき取り、見つけることができました。
今津町住吉神社
地図:今津
高島市今津に残存する「固定點」です。記録には「m60滋賀縣下高島郡今津村住吉神社前向テ右ノ方石燈籠ノ下ヨリ二段目台石東北角端十号」とあり標高は87.584メートルになっています。
今津の住吉神社はJR今津の北東300メートル、北国(ほっこく)海道に面したところにあり今津町道路元標の通りを挟んで向かいになります。向かって右(北)の「文政七年」の銘がある常夜灯の下から2段目の花崗岩台石(1段目は一部埋没)の上面東北角に+印が見つかりました。しかし一部磨耗のためか逆L字のように見えます。十字の一画は4センチメートル程度、地上高さは26センチメートルありました。
明治後期期の二等水準点
(国土地理院撤去標石展示品)
地図:上郷
つくば市の国土地理院中庭に展示されている撤去標石です。文字は薄くて見え難いのですが二等水準点です。表面は縦書き一行で「二等水準點」、裏面は「福二四」と刻字があります。「三角及水準測量成果摘要」によれば群馬県川場村川場湯原に設置され標高585.3メートルになっており1908年(明治41)に観測されています。
二等水準点標杭と同標石がそれぞれ1890年(明治23)と1915年(大正4)に省令で定められています。現行の水準点のように上面には球分体があり、それが破損したのかともおもいましたが、もともと平面であったようです。明治40年代に観測された水準測量成果によると
以下本頁ニ記載セルモノハ二等水準點ニシテ球分ナシ眞高ハ標石上面ノ高サヲ示ス [陸地測量部:三角及水準測量成果摘要 1916〜1918]
と記載されている部分が多く見られます。また1916年(大正5)頃発行された「水準測量實行法草案」(陸地測量部内部資料か)には球分体のない二等水準点標石の図が描かれています。
日光市に残存する明治後期の二等水準点
地図:川俣湖
初期の二等水準路線の一部が栃木県に残存していることが2007年(平成19)夏に判明しました。1908年(明治41)に設定されたもので日光市(旧今市市)の一等水準点を起点として鬼怒川上流の川俣をへて県境の引馬峠から福島県桧枝岐、南会津の一等水準点に接続されています。日本最高所とされる引馬峠の二等水準点標石(徳24号)の現存を確認された栃木県の中村宏さんはこの路線でほかにも2基の二等水準点を確認されていました。それらは大笹牧場内の徳8号、萱峠の17号で中村宏さんに埼玉県の飯島仁さんとともに現地を案内していただきました。このとき上栗山の徳12号が発掘確認されました。「徳」の冠字は緒方嘉辰陸地測量手のつかわれたもので、これらの点の記は国土地理院で保管されています。点の記には当時、陸地測量部の班長であった玉井要人陸軍工兵大尉の名前が載っています。玉井大尉は新田次郎の「剱岳 点の記」に登場します。また水準点の位置はわたしの手持ちの地形図では1974年(昭和49)発行の二万五千分の一「川俣湖」までは明示されていますが、もう少し後年まで記載はつづけられたようです。いずれにしてもこの頃、廃点になったものと思われます。
標石の大きさはいずれも一辺12.5、整形部の地上高さは30センチメートル程度で刻字は側面に縦書き一行で「二等水準點」(「等」の字体は草かんむり)反対面には「徳○號」(○は八、一二、一七の数字)とあります。上面は平面で球分体はありません。個々の標石についてはライブラリー「各地の水準点」のところに載せます。
わたしは引馬峠の水準点へはまだ行っていません。栃木県側からも福島県側からも廃道になっており薮がひどく容易に到達できないようです。いまでこそ大笹牧場への道路、川俣ダム建設にともなう道路整備で簡単に到達できるところもありますが100年前、山道の水準測量では大変な苦労をされたと偲ばれます。
[中村宏:日本最高所の水準点引馬峠水準点「徳24号」発見、「岳人」724号 中日新聞東京本社 2007.10 p187]