明治維新後、陸軍の地図・測量部門の職制はつぎのように目まぐるしく変わっています。
1871年(明治 4) 7月 兵部省陸軍参謀局
1872年(明治 5) 2月 陸軍省参謀局
1873年(明治 6) 4月 陸軍省第六局
1874年(明治 7) 2月 陸軍省参謀局
1878年(明治11)12月 陸軍省参謀本部
1884年(明治17) 9月 陸軍省参謀本部測量局
1886年(明治19) 3月 参謀本部陸軍部測量局
1888年(明治21) 5月 参謀本部陸地測量部
1879年(明治12)の「全國測量速成意見」にもとづき迅速測図によって全国の二万分の一地形図の作成を進めようとしました。当時軍制はまだ幕府から引継いだフランス式が残存しており測量・地図作成も陸軍兵学寮のお雇いフランス陸軍大尉ジョルダンなどの指導による1873年(明治6)に発行された「地圖彩式」にもとづくものでした。
1880年(明治13)〜1886年(明治19)に陸軍省参謀本部によって測量された東京府下、千葉、茨城、埼玉、神奈川県の一部を地図にした第一軍管地方二万分一迅速測図の原図921枚は現在、国土地理院で保存されています。フランス式地図といわれ彩色と文字が華麗ですが地図の欄外に「視図」といい、その土地の著名な景観や建物のスケッチが添えられたものや断面図もあり芸術性豊かな地図になっています。このことからも当時、川上冬崖をはじめ多くの画家が測量部門に採用されたことを理解できます。原図は1991年(平成3)に複刻され「明治前期手書彩色關東實測圖 第一軍管地方二万分一迅速測圖原圖覆刻版」として日本地図センターから発行されていますが限定170部で高価なものです。[長岡正利:明治前期の手書彩色関東実測図 国土地理院時報 74 1991]
しかし軍制全般がドイツ式に移行されたため1884年(明治17)には墨一色刷りとして印刷発行されています。右の地図は迅速測図の例です。原図は表題が「茨城縣下總國西葛飾郡古河町」で「明治十七年一月」「第四拾號之四」などと製飾部(地図枠外)にあります。また印刷発行図は表題が「古河町」で「明治十七年測量」「古河及関宿近傍第十七號(第一軍管地方迅速測圖)」「参謀本部陸軍部測量局」とあります。いずれも二万分の一図で国土地理院所蔵のものですが写真はさらに約50パーセントに縮小しています。
仮製地形図の作成
(京都の事例)
迅速測図が関東で測量され地図の発行がされていたのに対し関西では第四師管で准正式地形図の測図が実施されています。これはのちに「假製圖」と呼ばれているものです。その後あらたに関東地方では三角測量、水準測量による二万分の一正式地形図の測図が開始されていますが、すでに迅速測図のある地域は後回しになりました。1894年(明治27)に日清戦争がはじまり作戦地図作成を優先したためと考えられます。したがって大正初期までは地形図は二万分の一で迅速測図(関西では仮製図)、正式図が混在することになります。
京都の場合、京都中心部(例として図名「京都」)について1889年(明治22)に測量されその結果、1892年(明治25)に「假製地形圖」として大日本陸地測量部として「出版」されています。その図幅は、北は鞍馬、大原までです。またこの時点ではまだ三角点は明示されていません。
二万分の一地形図はその後、正式に作成しなおされ京都中心部(例として図名「京都北部」)は1909年(明治42)に測量、1912年(大正1)に正式図として「発行」されています。このときはじめて△に中点の三角点記号があらわれさらに現行の地形図と同様に四隅に緯度経度が掲載されています。京都周辺が一度に同時期に発行された訳でなく当面は假製図と正式図の共存がつづきました。ところが両図には区画のズレが多少あり、たとえば假製図の「大原村」「鞍馬山」「細野村」などがそれぞれの北にあたる正式図の「伊香立村」「桟敷嶽」「周山村」などとの間で隙間ができピッタリつながりません。これを補充するため「京都號補足圖」という珍しい図面が1895年(明治28)に発行されています。
二万分の一の假製図や正式図は現在のような二万五千分の一が完備されていなかった昭和中期までは一般に活用されたと思われます。これらの地形図はコピーならば、いまでも国土地理院から有料で入手することができます。1890年(明治23)には全国的に基本図の縮尺が五万分の一に改訂され現行地形図のもとができあがりました。
二万分の一 假製地形図
1884〜1890年(明治17〜23)測図
| 細野村 | 鞍馬山 | 大原村 |
| 愛宕山 | 京都 | 大津 |
| 沓掛村 | 伏見 | 醍醐村 |
| 山崎村 | 淀 | 宇治 |
二万分の一 正式地形図
1886〜1912年(明治19〜大正1)測図
| 知井村 | 三國嶽 | 細川 |
| 弓削村 | 黒田村 | 葛川村 |
| 周山村 | 桟敷嶽 | 伊香立村 |
| 瀧之町 | 鞍馬 | 大原 |
| 嵯峨 | 京都北部 | 大津 |
| 大原野 | 京都南部 | 膳所 |
| 山崎 | 淀 | 宇治 |
1881年(明治14)に参謀本部で発行された迅速測図原図のうち「神奈川縣武蔵圀橘樹郡大師河原村」の整飾部には「参謀本部測角點 明治十三年九月」の表示が読める標柱が描かれており説明には「自羽田村(イ)三角點位置望大師」とあります。三角点の位置を表す標柱と思われますが「測角點」という用語は類例を見ません。陸地測量部発足以前の測量標識には、いろいろな用語がつかわれていました。
1881(明治14)に参謀本部で大事件が発生しています。当時の軍港を含む一部の実測図が軍人、画工により清国公使館に密売されたというものです。実際は公知された地図であり外部流失があったとしても全く問題はなく部内で清国向けの地図が作成されていたことも黙認されていたようです。しかし当時の関係者である陸軍少佐木村信卿(きむらのぶあき1840〜1906)などが憲兵隊に拘束されます。軍事裁判により木村は閉門(軟禁か)、裁判当時は「非職」でありましたが、のち免職されています。木村は語学に通じておりフランス語はフランス公使館司祭メルメ・デ・カション(l'Abbe Mermet de Cachon)に、中国語は清国公使館参賛官(一等書記官相当か)黄遵憲に学んでいました。カションは当時の駐日公使館、公使レオン・ロッシュ( Leon Roches 1809〜1901)のもとで司祭兼通訳であり、また黄遵憲は当時、清国における有数の近代詩人で初代駐日公使、何如璋(か・じょしょう)のもとで日本についての研究も相当しており地図売却は黄の希望によるものとされています。
文献によると1881年(明治14)に地図漏洩疑惑事件に関して参謀本部の官吏が数人、謎の死を遂げていますが詳しいことは記述されていません。同年2月から参謀本部会計軍吏補服部道門が庁舎から転落死亡、製図御用掛大島宗美の自殺などがありそのご八等出仕の川上冬崖の謎の死、十一等出仕渋江信夫の獄中自殺へと発展していきます。[斎藤ほか:明治初期測量史試論 「地図」15巻3号 日本国際地図学会 1977][佐藤p:陸軍参謀本部地図課・測量課の事蹟4「地図」30巻1号 1992][師橋辰夫:明治初期洋画壇と陸軍参謀局 古地図研究 百号記念論集 日本地図資料協会 1978]
川上冬崖(かわかみ・とうがい 1827〜1881 万之丞、寛ともいいます)はわが国における西洋画の草分けといわれる存在でしたが西洋画そのものが明治初期には世間に認められず一たん文部省に入省しましたが内務省、ついで参謀本部に転じています。当時、わが国の陸軍軍制は江戸幕府からの継続でフランス式を採用しており1872年(明治5)には陸軍省お雇いフランス人としてルボン砲兵大尉(のち勲一等旭日大綬章を受ける)など軍事顧問が多数来日しています。地図もフランス式で高度な細密画法や整飾部に要所のスケッチが描く必要があったため多くの画工が地図作成に採用されました。このなかの頂点が川上でした。 川上は熱海の静養先で首吊り自殺をしたとわれています。一説には全身に朱を塗り発狂したとも伝えられています。また東京下谷の画室で縊死(いし)という説もあります。川上の死は当時の新聞にも報道され事実ですが事件そのものは闇に葬られたままでした。これを明るみにしたのが1974年(昭和49)第72回直木賞受賞作品、井出孫六の「アトラス伝説」です。井出は出版後、元海上保安庁職員の斎藤敏夫さんの指摘で調査不足に気づき追加資料「黄遵憲事件覚書」を作成しています。1987年(昭和62)にはNHK歴史ドキュメントで「地図は国家なり〜明治14年・参謀本部の密命」というタイトルで放映されました。当時の地図測量については陸軍はフランス式、海軍はイギリス式によって整備がすすめられていましたが陸軍のほうがフランス式からドイツ式に変わろうとしていた時期で山縣有朋など陸軍上層部によるフランス式関係者排斥の陰謀ではないかとうかがえます。[井出孫六:アトラス伝説 文藝春秋 1981][井出孫六:明治・取材の旅 黄遵憲事件覚書 現代史出版会 1977][堤啓介:地図は国家なり NHK歴史ドキュメント 8 日本放送出版協会 1988][滝悌三:日本近代美術事件史 川上冬崖の死 日経新聞 1986.3.1〜6.7この間14回連載 日本経済新聞 1986][高木菊三郎:川上冬崖 測量 1955年12月号 日本測量協会]
1877年(明治10)陸軍参謀局から発行された百十六万分一「大日本全圖」(国土地理院蔵)はこの事件の当事者である木村信卿が編集、渋江信夫による作図ですが伊能忠敬の影響を受けた明治以降のわが国の代表的な地図です。また1880年(明治13)〜1886年(明治19)に測量された第一軍管地方二万分一迅速測図の原図921枚ははフランス式地図といわれ彩色と文字が華麗ですが地図の欄外に「視図」といい、その土地の著名な景観や建物のスケッチが添えられたものもあり芸術性豊かな地図になっています。当時、川上冬崖をはじめ多くの画家が測量局に採用されたことを理解できます。[長岡正利:明治前期の手書彩色関東実測図 国土地理院時報 74 1991]
三角点の測標(やぐら)や標石が設置される前段階として選点作業があります。既設の三角点との位置関係、見通し、作業のし易さなどを検討し最適な位置が選点されます。このときに実地踏査をし目印として仮に選点杭が立てられることがあります。
写真の選点杭は1886年(明治19)につくられたもので兵庫県養父町餅耕地の民家で1984年(昭和59)ころまで保存されていましたが現在、国土地理院に保管されています。写真の右から2本目の下が尖っているものが実物でその右は実物の正面、左は側面と裏面のコピーです。実物は長さ97センチメートル、一辺5.4センチメートルの杉材角柱です。正面には「参謀本部陸軍部測量局一等三角點」、左側面には「明治十九年十月」、裏面は「三角測量課撰」と墨書きされています。ところで、この杭は実際に使用された形跡はありません。餅耕地集落の西2キロメートルの山頂(現在の二等三角点「須留ヶ峰」の東1キロメートル)に一等三角点補点を設置するつもりだったのが天狗の伝説や樹木伐採などの問題があり断念され用意された杭は使用されずに残ったものと思われます。[紙魚漁史:100年前の測量杭 国土地理院広報 189〜191 1984]
基線の設定
基線は三角測量に使う最初の三角形の一辺です。直線で長距離間、できるだけ平坦で、かつ見通しのきく土地が選定されます。基線尺という物差しで数キロメートルの直線を正確に測りますが最初の測量が終わった段階で基線の両端には一等三角点が設置され再測量に備えます。神奈川県相模原市と同座間市にまたがる相模野基線は1882年(明治15)地形図の整備計画により、参謀本部により本格的な全国統一をめざした基線としてはじめて設定されました。
相模野基線以前にも局地的、実験的な測量のため基線が設けられた実績があります。 記録に残っているものは1872年(明治5)に英国人マクヴィーン、ジョイネルの指導により工部省が設定した東京越中島と洲崎弁天間の基線、ついで1874年(明治7)東京本所一ッ目と三ッ目間の本所基線が設定、北海道では1873年(明治6)に開拓使がお雇い米国人ワッソン、デイの指導のもとに荒井郁之助らによる勇払基線、1876年(明治9)には福士成豊らによる函館助基線、また1878年(明治11)には「全国三角測量」の一環として内務省が那須西原で那須基線を設定し測量を実施しています。
基線は理論的には1ヶ所でよいのですが広範囲になると誤差が増え、その対策として明治から大正時代にかけ台湾や樺太をふくめ20ヶ所の基線が設定されました。これらの基線設定はわが国の測量業務が内務省から参謀本部の所管に変更になる時期から開始されたため相模野基線についで2番目に設定された三方原基線だけは内務省の測量によるものです。三方原(味方ヶ原)の測量では、ほかの基線と異なり英国製の測竿(基線尺)が用いられました。[内務省年報 明治十六年報告書 三一書房版 1984 p81]
北端ヲ都田村ニ、南端ヲ神谷村ニ撰ミ其兩端ニハ三尺立方ノ標石ヲ埋メ、其中心ニ銀ヲ嵌入シ十字ヲ刻シ各八間ノ高測櫓ヲ建テ標識トセリ [館潔彦:洋式日本測量野史 三交會誌 第二十二號(須磨漁史により再掲)陸地測量部 1915 p335]
基線名 所在地 設定年 長さ(メートル) 相模野 神奈川縣相模國高座郡 1882年(明治15) 5,209.9697 三方原 静岡縣遠江國浜名郡、引佐郡1883年(明治16)10,839.9757 饗庭野 滋賀縣近江國高島郡 1885年(明治18) 3,065.7239 西林村 徳島縣阿波國阿波郡 1887年(明治20) 2,832.2124 天神野 鳥取縣伯耆國東伯郡 1888年(明治21) 3,301.8051 久留米 福岡縣筑後國御井郡 1889年(明治22) 3,161.0071 笠野原 鹿児島縣大隈國肝属郡 1892年(明治25) 5,875.5088 塩野原 山形縣羽前國最上郡 1894年(明治27) 5,129.5872 須坂 長野縣信濃國上高井郡 1896年(明治29) 3,291.9120 鶴児平 青森縣陸奥國上北郡 1898年(明治31) 4,006.0309 札幌 北海道石狩國札幌郡、札幌區1900年(明治33) 4,539.7703 薫別 北海道根室國目梨郡 1903年(明治36) 4,069.8502 聲問 北海道北見國宗谷郡 1908年(明治41) 2,677.5035 沖縄 沖縄県琉球國中頭郡 1911年(明治44) 4,151.6773 擇捉 北海道千島國紗那郡 1913年(大正 2) 4,105.6081 宜蘭 臺灣臺北州羅東郡 1914年(大正 3) 4,225.8415 埔里社 臺灣臺中州能高郡 1914年(大正 3) 2,575.7965 鳳山 臺灣高雄州鳳山郡 1916年(大正 5) 4,961.3844 大谷 樺太豊原郡 1922年(大正11) 4,999.6897 敷香 樺太敷香郡 1926年(大正15) 4,999.4504わが国が統治していた台湾、樺太、千島に計6ヶ所が含まれています。いずれも大正時代になってから設定されました。[大村齊:本邦測量作業ニ於ケル基線測量ノ総覧 昭和2年8月2日 日本学術協会第三回大会報文 1927 附表其一]
基線測量
基線測量の方法については陸地測量部で1901年(明治34)に制定された「三角測量法式」(案)に細かく定められています。これは陸地測量部の内部指針のようなもので現在では国立国会図書館でしか見ることは難しいようです。同館蔵のものは図面が脱落していますが要点はだいたいつぎのとおりです。[陸地測量部:三角測量法式草案 1901 p7]
基線は3〜8キロメートルの直線を全長の百万分の一以内の精度で測定しなければなりません。平坦な一直線が得られる場所が望ましいのですが土地の傾斜は1度以内が理想的、2度半以内であれば許されます。基線の幅は10メートルです。基線路は両端間を2〜3分割して中間点(永久保存)を設置しますが、分割された各部をさらに2〜3分割して仮固定点(測定後撤去)を設置します。中間点と仮固定点を総称して節点といいます。両端と中間点は地中に盤石、その上に柱石(一尺二寸立方)、上面に点針を埋め込み、蓋で保護します。測定完了後は測量の日時、概要を記録した紙片をガラス瓶に納め密封して点針の傍に置きます。両端は後に一等三角点として使用するため、その上に通常の盤石、柱石を埋設します。天神野基線のように基線観測から三角点標石埋設まで23年間かかった例もあります。
測定は基線尺を用いて測定しますが、まず基線尺の検定を行い、ついで基線測量に移ります。求直線測量といい経緯儀で両端、節点が一直線にあることを確認しつつ行います。基線尺の温度補正や傾斜補正も行われます。基線測量によって得られる距離は斜距離ですから測定点間の水準測量を行い高低差から標高の低い方を基準とした水平距離を求めます。基線の各部を測定時間帯(午前と午後)や進行方向変え4回測定して平均と誤差(標準偏差)の計算を行います。最後に基線両端の経緯度の測定と近傍の一等水準点からの水準測量を行い、さらに楕円体高によって楕円体上の距離をを求めます。ここで楕円体高は本来、標高にジオイド高を加えた値ですが初期の測量ではジオイド高がわからないため楕円体高と標高は等しいものとして計算したようです。つまり楕円体面上の距離ではなく平均海面上の距離を用いて基線端点の位置を求めたことになります。内務省による那須基線の場合、基線の位置付近で距離10キロメートル、標高200メートルの基線で標高に1メートル程度の違いがあっても平均海面上の距離には2ミリメートル程度の影響しかありません。当時このようなことが十分議論されて誤差配分されたかどうかはわかりません。
基線が設定されるとその基線を三角形の一辺として、その両側に基線の長さの2〜3倍の位置にあらたな未知点を設け三角形を2組構成して2つの未知点の位置を求めます。これらの地点を第一増大点、増大点間を第一増大基線といいます。同様に第二増大点を求めますが、このようにして一等三角点間の長さに適合するところまで基線を増大します。
基線尺
初期の長さの測量は1874年(明治7)に開拓使が米国から導入したヒルガード式基線尺と呼ばれる4メートルの長さの物差し3〜4個を順に使用して何度も繰り返し最終(到着点)は検定尺でミリメートルの桁まで測りました。ヒルガード式基線尺は米国測量局のヒルガード(J.E.Hilgard)が考案した基線測量用の物差しでヒルガード測かん(金へんに旱と書く)、四米突鋼かん基線尺あるいは觸接滑動測かんともいいます。巻尺ではなく直径9ミリメートルのまるい軟鉄製の竿になっており木棹中に包入され測棹の一端は瑪瑙(めのお)が埋め込まれ、他端は滑筒がありバネで外方に向かい圧縮されています。滑筒の端は瑪瑙で刃形になっており他の測棹の一端と点接触するようになっています。この基線尺は両端を三脚で支え外気温の影響を少なくするために天幕内で使用します。精度は5キロメートルで1ミリメートル程度の誤差です。基線尺は使用前後に米国の原器と比較された準かん(標準器)により検定されます。温度補正に使用する検温器(温度計)も氷点試験により検定されます。ヒルガード式基線尺は1874年(明治7)開拓使が北海道の勇払基線、函館助基線で使用、1878年(明治11)内務省地理局が那須基線で使用、さらに1882年(明治15)参謀本部による相模野基線以降、1908年(明治41)北海道最北端の聲問(こえとい)基線の測量まで使用されています。ただし三方原基線については1883年(明治16)内務省により英国製測かんで測量された数値を参謀本部により同測かんとヒルガード式基線尺とを比較し改算されています。[陸地測量部:陸地測量部沿革誌 1922 p68]
該基線尺の比較作業及實測作業は其の間晝夜に亘り最も奮勵努力を要し、實に文字通り不眠不休の劇務で當時の基線測量の屬員等が異口同音に「一度は行くべしニ度とやるべき仕事にあらず」と溜息をつく程の難作業であつたと云ふ。 [平木安之助:矢島測量師のこと 地図 昭和19年8月號 陸地測量部 1944 p49]
相模野基線は最初1882年(明治15)にヒルガード式基線尺で測量され、1902年(明治35)再度、測地学委員会(文部省所管)が測量したときは温度変化に対応できる5メートルの米国フォース(Fauth)社製の氷漬鋼鉄製測かんをつかいました。まず100メートル比較基線の測定を行い、ついで基線測量に用いる100メートルと10メートル鋼鉄巻尺を比較基線上で検定し、これらの鋼鉄巻尺で実際の基線測量が行なわれました。
1908年(明治41)の聲問(こえとい)基線の測量の際はヒルガード式基線尺により4回測定されましたが、これとともにニッケル鋼5メートル基線尺により2回測定、さらに測地学委員会が所有するエーデリン式(Jaderin aにはウムラウトがつく、インバール合金製)25メートル基線尺により12回測定され3種の基線尺について比較もおこなわれています。 1984年(昭和59)稚内空港拡張工事にともない聲問基線東端点は移転改埋されることになりましたが、その際に点心の保護蓋の下からガラスの小瓶が出土しました。小瓶の中から当時の班長であった杉山正治陸地測量師により測量の目的やこれまでの基線測量の実施状況を和紙に記された「聲問基線測量紀要」が出土しました。本書は現在、国土地理院測地部にあるそうです。[西田文雄:ケプロン、聲問基線、測地成果2000 三和 第32号 昭和15年7月 三和会 2003 p30]
その後、測地学委員会によって1910年(明治43)に相模野基線の三度目の測量が行なわれました。このときはエーデリン式基線尺を使用して測量が行われ、同時に従来のヒルガード式基線尺とともにエーデリン式基線尺、ギョーム(Guillaume)式基線尺、レプソルド(Repsold)式基線尺について比較研究がされ、その結果、線状になったエーデリン式基線尺が実用面でも優れていることが認められました。[測地學委員會:相模野基線測量 測地學委員會報告 第貮巻 明治四十三年 測地學委員會 1916 p58]
1911年(明治44)から始まった沖縄や千島、台湾などでの基線測量でもエーデリン式基線尺がつかわれました。インバールというニッケル36パーセントを含むニッケル鋼でつくられています。インバールはフランス度量衡局の4代目局長ギョームの発明したものでニッケルと鉄の合金でできており外界温度による変化がきわめて少ないものです。 ギョームはインバールの発明と精密測定の応用で1920年(大正9)ノーベル物理学賞を受賞しました。
その後はエーデリン式基線尺(インバール合金製基線尺)が主になってきました。写真はインバール合金製基線尺で25メートルの長さがあり両端には約10センチメートルの端尺(目盛尺)をつけます。この端尺は1ミリメートル間隔で8センチメートル分の目盛が刻まれており基線上にある指標(カットオフ球)をこの目盛りで読み取りますが、この際ルーペを手に持って拡大して0.1ミリメートル単位まで目測で読み取ります。相模野基線の1910年(明治43)の測量では顕微鏡がつかわれました。この基線尺は1960年代までは 測量機器の精度を確かめるための基線場などでつかわれていました。インバールは屈曲しやすく弾性が極めて小さいので、いったん曲げてしまうと復元し難く長さも変化するので取り扱いは慎重を要しました。また基線尺は極めて正確でなくてはならないので使用前にかならず一定の温度と張力(重錘をつかいます)のもとで検定されます。[日本測量協会:測量学事典 1990 p64]
1955年(昭和30)頃から一等三角辺長を直接測定可能な測距儀が実用化されたため1954年(昭和29)、滋賀県の饗庭野基線での再測量を最後に基線尺をつかった基線測量はされていません。[国土地理院:国土地理院時報 100号 国土地理院 2003]
相模野基線
相模野基線の南北両端点の長さは実測で5209.9697メートルと記録されていますが関東大震災後24センチメートル長くなったようです。二万五千分の一の地形図「原町田」、「座間」には「基線北端点」「基線中間点」「基線南端点」の名称が明記されています。
北端点は一等三角点「下溝村」5339−23−3201として相模原市麻溝台四丁目にあり標石のほかに国土地理院の石碑と相模原市教育委員会が1990年(平成2)に建てた説明板があります。
中間点は四等三角点「基線中間点」5339−23−0301になっています。小田急相模原の近くで線路の南側の桜並木の遊歩道にあります。この辺りに座間中央ロータリークラブが設置された相模野基線の説明板があり、その北20メートルの道路上にあるハンドホールの中です。説明板によると中間点は南端点から2610メートルの位置にあり1902年(明治35)二度目の測量の際に測定時の直線を検証するなど正確を期すために設置されました。また当時この近くには「百米比較室」というのがあり基線尺の比較検定をしました。
南端点は一等三角点「座間村」5339−13−8401になっており座間市ひばりが丘一丁目にあるスーパースエヒロの駐車場が目標です。この駐車場の隣に内科医院があるのですが、こちらの宅内にあります。標石の傍には国土地理院の説明石碑があります。道路に面したフェンス越に見えます。
相模野基線はもともと1882年(明治15)に設置、測量が行なわれていますが、この最初の測量の際には南端点から1597.5432メートルの地点に第一中間点が、北端点から1744.8928メートルの地点に第二中間点が設けられています。基線全長を3区間に分け正確に距離が測定されました。これらの第一中間点、第二中間点は残存していません。また1902年(明治35)に北端点の内側10メートルの地点に補充点が設けられましたが、これも残存していません。
基線の長さは極めて精密に測定してあり、相模野基線では確認できませんが一等三角点標石の下方盤石のさらに下、地下約1.7メートルのところに基線端点標石が埋設され砲金製の針のような金属指標が正確な位置をしめしています。[武田通治:地形図の成り立ちと見方 古今書院 1959][測地學委員會:相模野基線測量 測地學委員會報告 第壹巻 明治三十五年、 第貮巻 明治四十三年 測地學委員會 1916]
相模野基線増大点
相模野基線の設定についで一等三角点「鳶尾山」5339−22−0601と一等三角点「長津田村」5339−23−1801が設置され、この両三角点間を新たな基線として一等三角点「連光寺村」5339−33−5701と一等三角点「浅間山」5239−72−8501の三角点が測量され、さらに基線が設定され、つぎつぎ三角測量が拡大されました。基線をもとにしてつぎつぎ増えていく三角点を増大点といいます。相模野基線の場合3回の増大で得られた一等三角点「丹沢山」5339−11−6301と一等三角点「鹿野山」5239−77−0601の間76キロメートルの辺が一等三角測量の最初の辺長になっています。
鳶尾山(とびおさん)の三角点は相模野基線の第一増大点として1882年(明治15)に鳶尾山に選点され翌年標石が埋定されました。ところが1971年(昭和46)に山頂周辺での土砂採取の影響が予想されたため北東1.1キロメートル、中津川をへだてた愛川町立中津小学校に移設されました。その後、土砂採取の影響がないことが確認され2004年(平成16)3月に再度、鳶尾山の元位置へ戻されました。愛川町の要請があったようです。
鳶尾山山頂へは小田急本厚木からバスで終点まつかげ台で下車し原谷公園、やまなみ峠をへて20分で到達できます。展望は愛川町方面、中津川から相模川一帯が見下ろせ相模野基線の第一増大点としてふさわしい位置で桜の名所にもなっています。
長津田村の三角点は横浜市緑区長津田町にあり東急田園都市線すずかけ台の南東方向600メートルの地点ですが東京工大と反対の南側から回り込まないと到達できません。地形図には高尾山と載っていますが野菜畑につづく低い丘陵で山頂には飯縄神社という祠があります。三角点位置からの展望は北に東京工大の長津田校舎、西は町田方面が開けています。
この標石が初期に設置されたものかどうかは定かではありませんが点の記によれば1883年(明治16)に相模野基線の第一増大点として田坂虎之助陸軍工兵大尉により標石埋定されたことになっています。田坂大尉は1875年(明治8)に任官しましたが、ただちに測量技術研究のためドイツに留学、1882年(明治15)帰国し参謀局測量課長に就任し明治30年代まで三角測量の中心となり生涯を三角測量事業に捧げました。