高低測量・几号水準点
内務省では1876年(明治9)頃から高低測量(水準測量)を開始しました。この測量で用いられた標石が各地に残存しています。
「几」は「几帳面」の「几」で「き」と読みます。広辞苑によれば几は机の意味があります。この標石に彫られた記号が三脚のついた机に似ており、こう呼ぶのかもしれません。高低几号、几号高低標または漢字の「不」に似ているので不号水準点ともいわれています。いずれにしても明治初期に内務省(内務卿:大久保利通)が地図つくりを試みていた当時の水準点標石で独立した標石のほかに建物、鳥居などの永久構築物に刻印された場合もあります。
聯測セル全域内ノ地面ハ其高低ヲ實測シ且大約十町毎ニハ几号ベンチマークヲ設置シ各号皆海面平均ヨリ高サヲ表スヘシ 但當時直チニ海面ヨリノ高サヲ測算スル能ハサルモノハ既ニ定メタル基線ノ水準線ヨリ起算シ他日ノ更正ヲ經テ表記スヘシ
[内務省議定 聯測仮條例第十七條 明治九年三月卅一日 1876]
當省地理寮於テ高低測量ノ際自今海面ヨリノ高低ヲ表スル記號別紙第一圖式ノ通沿路適宜ノ地ニ於テ在来ノ不朽物ニ彫刻シ又ハ第二圖石柱建設永存ノ筈ニ候條為心得此旨布達候事 [内務省達甲第二十八號 海面ヨリノ高低測量ノ際記號彫刻及石柱建設 明治九年七月二十七日 1876]
「不」の刻印はいずれの事例でも不の字横棒が7〜8センチメートル、縦棒が8〜9センチメートル程度になっています。不の字の横棒の位置が標高を示しますが水準測量の実務では不の字の横棒の切り込みに標尺を立てるための器具を固定して使うようになっています。不の字が傾斜面にあっても鉛直方向から30度くらいまでなら設置可能だそうです。しかし水平面に「不」が刻印された事例もありこの場合は中心に標尺を立てたか、あるいは三角点のように位置を特定するために設置されたということも考えられます。
当時の測量方式は江戸時代からのフランス式にかわりオランダ式もありましたが内務省ではイギリス式が採用されました。いまでもイギリスには同形の標石が街角に残っており、また標尺固定器具も使われています。日本では1876年(明治9)から東京中心部、東京・塩竃間の水準測量などで使われたのが最初です。その後地図作成は陸軍に移され測量方式もドイツ式に替わりました。
いままで、文献の記録、個人情報などなんらかの形で几号水準点の設置が明らかになっているのは全国で約320ヶ所(うち東京は約160ヶ所)ありますが現存しているのは140ヶ所程度です。わたしは皆さんの調査結果をフォローしただけで140ヶ所ほど探訪しましたが、かなり磨耗していたり石碑の下部で几号の部分が埋没していたり上塗りされているものなどあり確認は容易でありませんでした。
東京中心部の水準測量
東京中心部では1876年(明治9)に几号が31ヶ所に附刻され「綱紀高低測量」が行なわれています。[内務省第二回年報 量地功程ノ事 1877 p438]
水準測量ハ諸般ノ需用ニ供シテ利益多シトイヘモ就中衛生土木ニ効用アル殊ニ大ナリトス本課従前測定スル所ノ几號極テ夥シ今緩急ヲ謀リ東京府下ノ几號ヲ報道シ爾後測定スル所ハ追次繼續スヘシ依テ本編ヲ以テ高距第壹報トス [内務省:地理局雜報 第拾號 1879 p1]
とあり台地や坂道の多い首都圏の下水道などの整備にも利用されていたことが、うかがえます。このなかに「高距第壹報 東京府下几號實測」の表題で霊巌島水位標を零メートルとして73ヶ所について設置位置と実測値が載っています。この73ヶ所と前述の内務省第二回年報の31ヶ所との関係はわかりません。
東京中心部の几号水準点の位置と測量成果が公式に記録されているのは1879年(明治12)の地理局雑報だけですが1886年(明治19)同「東京實測圖」(初版は「東京市區三角測量圖」という名称)には地理局雑報に記載以外のものも地図上に几号の記号と標高が尺で表されています。しかし印刷された「不」の記号が極めて小さく不鮮明で確認が困難なものもあります。1884年(明治17)の参謀本部陸軍部測量局五千分一(例「東京南部」)では「不」の記号はありません。しかし三角点の方は残っています。
東京の几号については1967年(昭和42)頃から国土地理院の佐藤pさんや市川市在住の角田篤彦さんなどが内務省地理局発行の五千分一「東京実測図」30面から153箇所の几号の設置位置を克明にしらべられ現地調査をされました。[佐藤p:内務省地理局「東京五千分一図」について(U)月刊古地図研究 通巻第46号 日本地図資料協会 1973 水準路線図(想定)あり][角田篤彦:「不」の石の謎 地域雑誌「谷中・根津・千駄木」54 谷根千工房 1998]
東京中心部では水平面刻印のケースも見られます。几号の刻印はあっても本来の水準点ではなく位置を測量するための基準点(三角点)とも考えられます。これは内務省が1874年(明治7)以降に設置した「三角點」の位置に隣接しているため同「附属豫備點」または「補助點」の可能性もあります。これらは内務省地理局発行の五千分一「東京実測図」には明示されていません。
東京・塩竃間の水準測量
東京・塩竃間の水準測量は関東八州大三角測量のため那須に設けられた基線の位置に標高を与える目的がありました。
關東八州大三角測量ノ義昨明治十年其底線ノ位置ヲ下野國奈須西原ニ定メ其高低測量ヲ陸前國鹽竈灣ト武藏國東京灣トノ二ヶ所ニ起シ連續セシメタリ・・・ [内務省議定 明治十一年二月廿一日日決判 1878]
東京、塩竃間の水準測量(一等綱紀高低測量)は1876年(明治9)8月に開始され翌年8月に終了しましたが当時、石巻に開港の要望があり近くの塩竃港の海面高さを東京湾と比較するためにも行なったといわれます。東京と塩竃の両方から水準測量を実施し栃木県太田原で整合差2.6尺の結果を得て、これを測量誤差として配分しました。東京(霊岸島)と塩竃の海面標高のちがいを無視して算出したようです。この測量には内務省の大川通久、清水盛道などが当りました。[高木菊三郎:地形圖學概論 山一書房 1943 p54][内務省地理局:例規類纂 明治十七年七月 復刻版 橘書院 1981][藤井陽一郎:陸地測量部時代の測地学の研究 「測量」1965年8月号 日本測量協会 p25]
館潔彦の洋式日本測量野史の1876年(明治9)のところにつぎのように説明されています。
八月、東京塩鹽竃間ノ水準測量ヲナス、大川通久、清水盛道担擔任ス、一ハ東京靈巖島船松町量水石標(自明治六年至九年 三ヶ年ノ平均數)二、八七〇尺ヨリ起リ奥羽街道下野太田原新設石標ニ至リ一ハ陸前鹽竃量水標(明治九年九月ヨリ同十二月迄三ヶ月間の平均數)四、〇一四尺ヨリ起リ、仙臺ヲ經テ太田原新設石標ニ會ス東京、太田原間二回の平均六八五、六四六三尺ニシテ鹽竃、太田原間二回ノ平均六八三、〇〇八三尺トス、即兩測ノ差二、六三八〇尺ナリ、今此結果宜ク等カルヘキニ二尺有餘ノ差ヲ生スル者ハ測量ノ精粗固ヨリ同日ノ論ニ非ス、且港灣ノ形状ニ因テ海面亦高低ナキヲ必シ難シ、假ニ此二因ヲ捨テ單ニ測量ノ差ニ歸スルモ、百里ニ近キ長程ニシテ二尺餘ノ差ヲ生スルハ測量ノ大法ニ於テ自ラ公許スル所ナレハ同一ノ數ト看做スモ敢テ妨ケ勿ルヘシトノ議、勝ヲ制シ他日之ヲ那須西原ノ基線ニ使用スルニ決ス。
[館潔彦:洋式日本測量野史 三交會誌 第二十一號(須磨漁史により再掲) 陸地測量部 1915 p282]
地理局雑報の東京府下成果報告の後続号には「高距第弐報 従東京至陸前鹽竈」の表題で霊岸島の基準点を含め栃木県まで64ヶ所について設置位置と実測値が載っており、それ以降は「以下次号」になっているものの地理局雑報がその後廃刊になったため福島以北の分は公表されておらず長年、謎になっていました。[内務省:地理局雜報 第十四號 1879 p1]
ところが2004年(平成16)6月、わたしは仙台の宮城県公文書館で宮城県内設置位置が明示された文書をみつけました。1877(明治10)6月6日付けの「出張地理局」から「宮城縣廰庁」宛の公文書で「宮城縣管下塩釜ヨリ越河マデ高低測量記號(不)附刻所在」として27箇所の位置が明らかになっています。ただし測量成果は載っていません。また後日、福島県内の几号についても福島市にある福島県歴史資料館で公文書をしらべましたが設置位置は不明でした。これは、のちほど宮城県の浅野勝宣氏の報告書で明らかになります。また測量成果というわけではありませんが、几号水準点の設置位置とおもわれる一部の地点の標高が後年、農商務省地質局で発行された「日本全國高低表」に掲載されています。京都大学地質鉱物学教室で閲覧し確認しました。[地質局:明治二十年、二十一年地質要報 農商務省 1887〜88]
東京、塩竃間の几号については1994年(平成6)頃、国土地理院の箱岩英一、岡田直久、関義治、石田全平、佐藤栄一、田中宗男の皆さんが実地調査をされました。その後2005年(平成17)に宮城県の浅野勝宣氏が明治政府のお雇い外国人クニッピングの報告書に東京、塩竃間、几号水準点の福島県を含む130ヶ所の全位置と標高が記載されているのをみつけられ、さらに同氏が全線を自転車で走行、この詳細位置を調査された貴重な報告書が作成されています。[箱岩英一、関義治:奥羽街道と明治水準点追跡 「測量」1995年1〜3月号 日本測量協会]ほか、[浅野勝宣、畠山未津留:宮城の標石 第4集 浅野勝宣 2005]
東京中心部、東京・塩竃間以外の水準測量
東京の中心部と東京・塩竃間の高低測量以外で内務省の記録としてあるのは1876年(明治9)に京都では几号水準点(数量不明)を設置して淀小橋を基準点として「三等綱紀高低測量」が、さらに同年、兵庫神戸の三角測量で几号水準点を17ヶ所に設置して「三等綱紀高低測量」が行なわれました。このほか横浜では1877年(明治10)几号水準点の移設、新設の記録があります。これらは三角測量にともな各点にい標高を与えるための測量です。以上は内務省年報によるものですが、神奈川県史料によると横浜では1876年(明治9)に35ヶ所(内訳では36ヶ所が記載)に水準点(「測量石点」と表記)が設置されています。[内務省第二回年報 量地功程ノ事 1877 p433、p435、p440][神奈川県立図書館:神奈川県史料 第一巻 制度部 県布令 1965 p394 ]
1881年(明治14)内務省地理局発行の五千分一「横濱實測圖」には一部、几号の記号が見られます。また当時の大都市以外でも几号の実物が見つかっていますが地理局雑報と東京、横濱実測圖に掲載されているもの以外は(たとえば京都、大阪など)内務省地理局が設置したものかどうかさえ確証がありません。
また単に水準点をあらわすマークであると思われるケースもありました。明治後期以降、水準点は上部に球分体のある標石になりましたが側面にB.M.または「不」の几号マークが刻印された例も見られます。この場合、几号自体は標尺を支持するのではなく単に水準標石を表すシンボルにすぎません。この形式は河川の水準点などで昭和中期までつづきました。[君島八郎:君島測量學 丸善 1911]
几号水準点の疑問
1.水平面の几号 東京にある几号水準点には水平面に「不」が刻印されたものが十数点見られます。このうち明らかに元もと垂直面に刻印されたものが後年、敷石などに流用されたため水平面刻印のようになってしまったケース(例:下谷三島神社)もありますが一方、構築物に付刻したものではなく独立した標石で水平面刻印になっているケース(例:谷中浄名院)もあります、このような例は他府県では見られません。水平面刻印のつかわれ方は英国にも例がありますが、この場合「不」の横棒がなく東京の場合は当てはまらないと思われます。はたして水準点としてつかわれたものか、あるいは同時期に内務省により設置された大三角点の補助点として使われたのではないか(例:三田綱坂、角田篤彦さんの説)ともいわれますが決定的な裏づけは見あたりません。
2.標尺支持金具 几号水準点は当時の御雇い技術者である英国人から伝えられたことは、いまなお英国に同形式の水準点が存在することから明らかです。本来「不」の横棒に金具を挿入し張り出した金属板の上に標尺をたてますが日本でこのような方式がつかわれたか記録が見つかりません。どうしても支持金具がなくてはならないものではなく日本ではつかわれなかった可能性もあります。とくに刻印の薄い「不」や毛筆体のような「不」(例:郡山市本栖寺)ではそのように思われます。
3.水準路線
東京・塩竃間の几号水準点のように、ほとんど奥羽街道にそって几号水準点がみられ当時の地理局雑報に記載された順序を追うと水準路線を構成していることが明確です。しかしこれ以外の東京、横浜、そのほかの府県にある几号水準点は複数あっても元データが少ないことや異質のものが交じり合ってそれらを繋いだだけでは路線として成り立ちません。当時の几号水準路線がどのような状態であったか知りたいものです。東京の場合、元国土地理院の佐藤pさんが几号の位置を地図(地理局五千分一図か)上に表し線で結んだものを、かりに水準路線として想定されています。しかし著述のとおり当然つながっていると思われるところが元データの欠落からか切断されていたり図の接合部で食い違いを見せているようです。いずれにしても現在、国土地理院で設定されているような水準路線よりも細かく複雑になっています。[佐藤p:内務省地理局「東京五千分一図」について(U)月刊古地図研究 通巻第54号 1974.8 p3]
内務省地理局雑報掲載の几号水準点
内務省雑報に記載された表はつぎのとおりです。原文には標高はメートルのほか尺でも記載されています。すべてが残存しているわけではありません。
高距第壹報 東京府下几號實測[内務省:地理局雜報 第拾號 1879]
順 標目 メートル
001 霊巌島水位標 0
002 新船松町船改所圍外路傍新設石柱 2.5718
003 永代橋西詰欄干石柱 3.7286
004 永代橋東詰欄干石柱 3.6016
005 深川八幡宮石華表 2.5761
006 洲崎辨天門前碑 1.1848
007 本所北辻橋際新設石柱(東詰南ノ方) 1.6368
008 本所法恩寺々銘ノ碑 1.3671
009 吾妻橋際新設石柱(東詰南ノ方) 2.6528
010 両國橋西詰欄干石柱 4.5873
011 両國橋東詰欄干石柱 4.5842
012 深川本誓寺本堂際碑 2.1293
013 蓬莱橋石欄干石柱 3.8321
014 虎ノ門枡形石垣 6.8178
015 測量課邸北ノ角石垣(溜池葵町貳番地) 14.7053
016 赤坂門石垣 22.4186
017 紀伊國坂上溝際石柱 24.0981
018 馬塲先門石垣 3.7601
019 櫻田門石垣 7.2603
020 半藏門外石井枠 28.0586
021 四ッ谷門石垣 31.0201
022 四ッ谷元大木戸玉川上水堰際新設石柱 33.3984
023 芝金杉橋欄檻石柱 4.4778
024 本芝四丁目鹿島社狗石臺石 3.9243
025 高輪元大木戸石垣 4.1871
026 芝愛宕社石華表 6.1376
027 赤羽根橋際迷子知ルヘ石 4.9566
028 麻布宮下末廣神社石華表 8.9796
029 麻布一本松氷川社石華表 28.3348
030 麻布四ノ橋近傍西福寺石手水鉢 8.0838
031 白金村二十番地覺林寺 12.7753
032 麻布六本木町四拾三番地光専寺門前碑 30.6609
033 青山南町四丁目貳番地梅窓院石手水鉢 32.7387
034 青山六道辻甲賀町壹番地新設石柱 33.2702
035 鳥越神社石華表(浅草元鳥越町) 3.7876
036 浅草東本願寺本堂前石井枠 2.9077
037 浅草吉野町熱田神社高麗狗石臺 3.5199
038 京橋石欄干石柱(北ノ方) 4.8242
039 一石橋迷子知ルヘ石 2.9227
040 日本橋南詰橋名ノ石 4.9047
041 萬世橋石欄干(南ノ方) 4.8704
042 上野廣小路常楽院中地蔵臺石 5.7998
043 上野信濃坂下供養塔臺石 5.2931
044 下谷金杉三島神社玉垣石柱 3.9248
045 下谷新道通リ町円通寺百觀音石 3.6843
046 千住南組素盞男神社石華表 4.1401
047 千住北組五丁目鎮守八幡社内石碑 2.8031
048 保木間村字増田増田橋石崖 3.2801
049 木挽町海軍操練所三角測點上面 2.2673
050 神田橋御門枡形石垣 4.3971
051 一ツ橋門枡形石垣 4.3029
052 雉子橋門枡形石垣 3.5129
053 田安門枡形石垣 25.5786
054 牛込門枡形石垣 12.2014
055 市ヶ谷門枡形石垣 18.9836
056 市ヶ谷八幡宮唐銅手水鉢臺石几号 28.7209
057 水道橋内土手石垣 7.4862
058 本郷真砂町櫻木神社高麗狗石臺 22.5312
059 牛込神楽坂善国寺毘沙門堂虎石臺 18.7644
060 駿ヶ臺東紅梅町祭司ニコライ氏邸礎 19.9784
061 駿ヶ臺赤城神社石華表 25.9919
062 小日向水道端本法寺鐵水鉢臺石 9.5667
063 礫川牛天神社華表 8.3601
064 駒込追分町八番地際道路傍新設石柱 22.5036
065 湯島天神社華表石礎 17.8303
066 市ヶ谷薬王寺門前碑 25.4744
067 牛込喜久井町本松寺願満祖師堂前碑 24.9867
068 傳通院大黒社内石燈籠臺石 25.0371
069 小石川久堅町八拾五番地極楽水碑臺石 11.3104
070 白山前町四十八番地妙清寺門前碑 20.5272
071 西ヶ原村山林課御用地内木標 24.4008
072 芝愛宕山三角測點石上面 25.4296
073 芝愛宕山安永八年二月ト記シタル碑ノ臺石
横面T符ヲ彫ル 26.2361
高距第貳報 從東京至陸前鹽竃[内務省:地理局雜報 第十四號 1879]
順 標目 メートル
霊巌島水位標平均潮 0
同所几号石 2.5718
001 京橋石欄干石柱(北ノ方) 4.8242
002 一石橋際迷子知ルヘ石 2.9227
003 萬世橋石欄干(南ノ方) 4.8704
004 上野廣小路常楽院中地蔵臺石 5.7998
005 上野信濃坂下供養塔臺石 5.2931
006 下谷金杉三島神社玉垣石柱 3.9248
007 下谷新道通り町圓通寺百觀音石 3.6843
008 千住南組素盞男神社石華表 4.1401
009 千住北組五丁目鎮守八幡社内石碑 2.8031
010 保木間村字増田増田橋石崖 3.2801
埼玉縣管下
011 瀬崎村浅間社石造手洗 3.9531
012 草加驛六丁目神明社華表 4.5171
013 西方村字行人塚大相模不動道標 4.6676
014 大澤町字天神前管社華表 6.4101
015 大枝村字屋敷前普門品供養塔 6.6431
016 粕壁驛上宿神明道標 9.6696
017 堤根村二百六番屋敷九品寺青面金剛供養塚 9.7396
018 下高野村字小谷塚株巖島境内石燈籠 7.7776
019 茨島村下高野村界標傍石橋石崖 7.4671
020 幸手驛馬之助神明社石燈籠 9.3721
021 小右衛門村香取八幡社華表 16.3131
022 栗橋渡場舊關所址石崖 16.0076
茨城縣管下
023 中田町香取八幡社華表 15.4711
024 古河驛中央掲示塲石崖 22.0606
橡木縣管下
025 野木驛字二丁目七五三引稲荷華表 24.1186
026 友沼村法音寺門内供養塔 24.2901
027 間々田驛南口住正寺門前十九夜塔 28.6406
028 粟宮村字東道上觀世音塔 32.9441
029 小山驛須加神社石造幟枠 37.2066
030 喜澤村字溜端陸羽結城分角新設 44.7761
031 小金井上町十九夜塔 55.5481
032 小金井下石橋両村界標向新設石標 62.3926
033 石橋驛南口字花ノ木妙法供養塔 67.5011
034 銷堂新田字西裏星宮神社華表 76.9756
035 雀宮北口馬頭觀世音供養塔 91.5611
036 臺新田字堀越妙法供養塔 103.0256
037 宇都宮南口蒲生君平里 117.2606
038 宇都宮驛中奥州日光追分道標臺石 126.7211
039 今泉村字高尾神六拾六部塚 118.9961
040 海道新田十三當地供養塔臺石 138.7446
041 白澤驛西鬼怒川西岸勝善神塚 144.0886
042 上阿久津村字大坂二十三夜塔 155.0291
043 氏家驛中央里程標 160.8321
044 挟間田村彌五郎坂下一ノ堀橋際大黒塚 158.0866
045 喜連川荒川舊馬頭觀世音 127.3991
046 喜連川北口内川南岸字河原町東供養塚 132.5816
047 下河戸村字引田御野立場(新設) 186.5581
048 佐久山驛南口百五拾番地觀音堂境内 191.6691
049 佐久山驛北口淨正寺門前川越阿彌陀ノ
女來石塚 175.1421
050 浅野村字六本松妙法供養塔 200.7041
051 太田原南口日光街道示道標傍(新設) 207.5376
052 太田原上町金燈籠臺石 208.2886
053 中田原村村蛇尾川北方黒羽道舊供養塔臺石 202.4867
054 市野澤村界標傍新設石標 224.1296
055 練貫村字下町觀音阪下十九夜塔 243.3418
056 鍋掛那珂川西岸馬頭觀音(石塚) 234.1315
057 越堀那珂川東岸村界標 224.1902
058 寺子村街道中央大黒天臺石 262.5389
059 寺子村字黒川壷里程標 252.3874
060 蘆野驛奈良川高橋際石地蔵 249.0696
061 横岡村字峯岸地内牛石 274.5721
062 寄居村字大久保壷瓢箪石 352.2523
063 寄居村両國界標石崖 411.5115
以下次号
この表は栃木、福島県境で終わり「以下次号」と書いてありますが地理局雑報がその後廃刊になったため福島以北の分は公表されていません。
クニッピング報告記載の几号水準点(福島県の部分)
明治政府(文部省、農商務省、内務省)のお雇い外国人(ドイツ人)クニッピング(Erwin Knipping 1844〜1922)による報告のうち福島県の部分のみを転記します。原文には標高のほか隣接水準点からの距離が記載されています。すでに宮城県の浅野勝宣氏の報告書にも記載されていますが、わたしは原本を京都大学で確認しました。1873年(明治6)に初刊された在日ドイツ人の日本研究誌で京都大学蔵のものは1876(明治9)〜1880年(明治13)の集成版です。浅野氏はこれに実地調査と考察を加え詳細位置を報告されています。なおクニッピングはドイツの気象学者で1884年(明治17)日本初の気象通報を発表しました。1887年(明治20)には富士山頂での気象観測も行っています。同氏の意見により内務省は測量にメートル法を採用しています。また同氏の編集した日本全図が当時英国で出版された「日本旅行案内」に紹介、推奨されています。[浅野勝宣、畠山未津留:宮城の標石 第4集 本編 浅野勝宣 2005][高木菊三郎:日本地圖測量小史 古今書院 1931 p97][清水靖夫:内務省地理局「東京実測全図」について 地図 6巻3号 1968 p1][アーネスト・サトウ編著、庄田元男訳:明治日本旅行案内 平凡社 1996 上巻p23、この文献はErnest Mason Satow, Albert George Sidney Hawes:A Handbook for Travellers in Central and Northern Japan, J.Murray London 1884の全訳][野中至:富士案内 芙蓉日記 平凡社 2006 p241]
DAS TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT
[Knipping: DAS TOKIO-SENDAI NIVELLEMENT Mittheilungen der Deutschen Gesellschaft fur Natur-und Volkerkunde Ostasiens Band U Heft 14 Yokohama 1878 p118]
順 標目 メートル
064 Shirasaka(Nordseite) 405.1877
065 Shirasaka 409.7414(注1)
066 Kawagome 382.7502(注2)
067 SHIRAKAWA 369.0554
068 Abukumagawa(N.S.) 347.8189
069 Niogaya 331.9451(注3)
070 Otagawa 314.5498
071 Jumase 304.0458(注4)
072 Owaku 291.9658
073 Yabuki Shinden 287.4985
074 Kiuraishi 283.9045
075 Kagamida 273.5965(注5)
076 Sukagawa 254.7545
077 Morijiku 260.8822(注6)
078 Sasagawa 232.5969
079 Nagamori 227.3421
080 Kuoriyama 224.7471
081 FUKUYAMA 230.5936
082 FUKUYAMA 241.4653
083 Yamanoi 225.4255(注7)
084 Niyeda 212.1675
085 Motomiya(Sud Ende) 206.1220
086 Motomiya 205.4952
087 Sugita 244.2114
088 Naritamura 203.4416
089 NIHONMATSU 238.1401
090 Shibukawa 203.0796
091 Matsukawa 192.8058
092 Ashagawa 159.7840
093 Shimidzumachi 163.0402
094 Fushiogami 123.9434
095 FUKUSHIMA(Shinobubashi) 65.0016
096 Fukushima 68.7373
097 Isobe 60.0483
098 Senouwaye 58.4505
099 Kori 77.5400
100 Tanichi 99.2820(注8)
101 Fujita 72.9482
102 Kaida 151.6724(注9)
注記は福島縣権令から内務郷宛の公文書「山野路傍等散在之石碑処分之儀ニ付伺 明治十年十月四日」の「調書」に所在が記述されています。[福島縣權令から内務郷宛の公文書 1877 明治十年従十月至十二月 官省指令留 記録科 七十一号 福島県歴史資料館蔵 F−243]
(注1)第十區白河郡白坂村馬頭觀世音大菩薩臺 臺自然石
(注2)第十區白河郡皮篭村石地蔵臺石
(注3)第十區白河郡萱根村二十三夜塔臺 臺自然石
(注4)第九區白河郡踏瀬村元愛宕神社石鳥居現今祠ナシ
(注5)第八區岩瀬郡鏡田村豎通三東横祐九居臺石
(注6)第八區岩瀬郡森宿村奉納太乗妙典供養塔臺石
(注7)第七區安積郡山ノ井村馬頭觀世音臺石
(注8)第二區伊達郡谷地村金華山臺石
(注9)第二區伊達郡貝田村庚申臺石
出張地理局公文書記載の几号水準点
記載された位置はつぎのとおりです。測量成果は載っていません。記載順序は北から南へなっていますが、ここでは内務省雑報の表にあわせ逆順に表示します。
宮城縣管下塩釜ヨリ越河マデ高低測量記號(不)附刻所在
[内務省出張地理局から宮城縣廰庁宛の公文書 1877]
順 標目 メートル
103 刈田郡越河三十五番地大浪甚五郎門石
104 刈田郡平村字矢尾一軒家傍丸石
105 刈田郡齋川馬形沼岸丸石三澤村十三番組掃除場内
106 刈田郡中埜目ムラ字穴田前一軒家傍旧金華山塔臺石
107 刈田郡白石驛南口一等路指道石標
108 刈田郡白石驛北口白石橋北詰旧金華山塔臺石
109 刈田郡深谷ムラ子捨川橋北詰丸石
110 刈田郡宮村陸羽両道分岐旧地蔵臺石
111 刈田郡宮村字向山駕籠石稲荷社内立石
112 柴田郡平村赤坂下出橋際腰掛石里構並杉
113 柴田郡大河原警察分署外囲石垣
114 柴田郡沼辺ムラ立石囲百六十六番地太田常三郎居宅前
115 柴田郡舟迫松並木道西側ノ丸石
116 柴田郡四日市塲ムラ村字三軒茶屋掲示塲傍藏王塔
117 名取郡岩沼竹駒神社石燈籠
118 名取郡植松邑字西向囲一ノ橋際道祖神路石塚
119 名取郡増田村社蕉社神燈石礎五十六番ノ一番地善藏所有
120 名取郡大野田邑名取川北岸十五番地宝龍社内金剛山石塚
121 名取郡長甼八十一番地常藏院堂前石燈籠
122 宮城郡仙臺廣瀬橋北詰欄檻下礎石外面
123 宮城郡仙臺芭蕉辻里程元標礎石
124 宮城郡苦竹邑百十三番地角四辻指道石標
125 宮城郡岩切邑二百番地青麻道石標冠川北岸
126 宮城郡南宮邑一番地慈雲寺門前石地蔵
127 宮城郡市川邑大久保坂街道北側ノ石
128 宮城郡塩竈村杉坂町一ノ宮常夜燈臺石
129 宮城郡塩竈村小島囲ノ内小黒嵜
通計二十七箇所