
間宮林蔵(1780〜1844)は19世紀はじめ日本の北辺に長く滞在し蝦夷地(北海道)、千島列島、樺太の探検、測量にあたりました。林蔵の「東達地方紀行」(とうたつちほうきこう)は沿海州地方の世界最初の記録であり、また間宮海峡を発見しシーボルトが「間宮の瀬戸」と名づけ世界に紹介しました。伊能忠敬は北海道では南海岸しか測量できず残りは林蔵の測量結果をもとに大日本沿海輿地全圖の蝦夷地部分が完成しました。なお松田伝十郎(1769〜1843)も間宮と同時期、別行動で樺太最西端ラッカ岬に達し樺太が島であることを確認しています。
北方謙三の小説「林蔵の貌(かお」には間宮林蔵が幕府の隠密として行動が描かれています。幕末、蝦夷地は松前藩の統治下でしたが水戸藩は自らの領地に、薩摩藩は交易の拠点を画策、そこへロシアの南下、幕府は直轄地とする財力不足で朝廷、幕府、水戸、薩摩両藩の隠密さらに高田屋嘉兵衛も暗躍します。林蔵が水戸藩の隠密と蝦夷地での逃避行中、食糧が欠乏し愛犬「揺彦」を殺し肉を喰らったり測量用の重錘で敵を殺傷するなど凄惨、な場面も見られます。もちろん小説ですから史実と異なる点は多々あります。[北方謙三:林蔵の貌(かお)集英社 1996]
間宮林蔵の立像(宗谷岬)
地図:宗谷岬
北海道最北端の宗谷岬にある間宮林蔵の立像です。もともとこの位置から西3キロメートルのところ「間宮林蔵渡樺の地」にあったのが移設されたようです。1808年(文化5)、松田伝十郎とともに宗谷から樺太に渡り東海岸を詳しく調べました。同年再度単身で樺太に向かい大陸と海峡を隔てた島であることを発見しました。
間宮林蔵の碑と立像(小貝川)
地図:藤代
取手市の北、小貝川岡堤ちかくの中洲に間宮林蔵の「間宮倫宗先生發祥地碑」(倫宗は林蔵の本名)と立像があります。林蔵が少年の頃、生誕地上平柳村近くの小貝川の堰止め工事を手伝い当時の工事監督であった村上島之允(むらかみ・しまのじょう 1760〜1808)に認められ探検家となるきっかけとなりました。碑は1929年(昭和4)の建立であることが刻字が薄くなった碑文から読めます。また高さ2.5メートルある立像は1989年(平成1)に建てられました。
間宮林蔵の生誕地
地図:藤代
林蔵は1780年(安永9)常陸国筑波郡上平柳村で生まれました。現在は、つくばみらい市になりますが、その前は伊奈町でした。1844年(天保15)江戸で没しましたが遺骨は生誕地の専称寺に葬られています。墓地は本堂に向かって左(南)にあり高さ70センチメートルの墓石の文字「間宮林蔵墓」は林蔵生前の自筆といわれています。この右隣には林蔵の両親の墓石があり、またその前には「伊奈の塋域」(えいいき、墓地のこと)といわれる顕彰記念碑があります。1910年(明治43)志賀重昂らの仲介で建てられたものです。林蔵の墓は東京都江東区平野の本立院にもあります。
林蔵の生家は墓地から東へ200メートルのところにあり1971年(昭和46)、現在地に移築、復元されたものです。生家の隣にある間宮林蔵記念館には林蔵がかかわった地図や探検に使用した頭巾、サングラスなどが展示してあります。1993年(平成5)に旧伊奈町により建設されました。
近藤重蔵
近藤重蔵(1771〜1829 生前の実名は守重)は江戸駒込で生まれました。幕府の勘定方など勤めましたが1798年(寛政10)幕府に北方調査の意見書を提出して松前蝦夷地御用取扱となり5度にわたり蝦夷地に赴き千島列島、択捉島を探検、同地に「大日本恵土呂府」の木柱を立てました。松前奉行設置にも貢献し、また高田屋嘉兵衛には国後から択捉間の航路の調査をさせました。幕府に「辺要分界図考」を提出しましたが当時の北辺地域における先進的な文献であったといわれます。なお最上徳内(もがみ・とくない 1754〜1836)は近藤重蔵の配下として北方探検に同行しました。
近藤重蔵の石像
地図:赤羽
近藤重蔵が甲冑に身を固めてエトロフに渡った姿の像が東京都北区滝野川二丁目の正受院(しょうじゅいん)にあります。JR京浜東北線王子から音無橋を渡り石神井川にそって200メートルの地点から南に入ったところです。本堂のに向かって左のイチョウとウメの木の下に見られる高さ1メートル程度の石像で北区教育委員会の説明板によれば重蔵は1822年(文政5)から4年間を正受院の東隣に「滝野川文庫」という書斎を設けて住んだそうです。この像は江戸の画家、谷文晁(1763〜1840)の下絵により制作といわれます。
近藤重蔵の墓所
地図:勝野
近藤重蔵は偉大な業績にかかわらず長男が罪を犯したため江州大溝藩(探訪当時滋賀県高島町)に預けられ3年後に亡くなりました。墓所はJR近江高島の西、徒歩15分のところにある瑞雪禅院の奥にあります。このほか墓所は東京都文京区向ヶ丘の西善寺にもあります。
最上徳内
(もがみ・とくない)
地図:楯岡
最上徳内(もがみ・とくない 1754〜1836)は出羽国(後の羽前国)村山郡楯岡村(現在の山形県村山市楯岡)の農家に生まれ1781年(天明1)、江戸へ出て本多利明(1743〜1821 数学者、経済思想家)の音羽塾に入門し、天文、測量、航海術などを習得しました。
1785年(天明5)から幕府の巡見隊の一員として蝦夷地へわたり地理やアイヌの生活、風俗などを調査しました。千島、樺太、国後、択捉、ウルップ島へも渡り生涯、9回の蝦夷地調査を行っています。1789年(寛政10)には近藤重蔵の配下として択捉島に領有を意味する「大日本恵登呂府」の標柱を立てています。1826年(文政9)、最上徳内が72歳のとき、江戸ではじめて30歳のシーボルトに出会い、その後たびたび会見しシーボルトは「尊敬すべき老学者、卓越せる日本の探検家」とたたえています。墓地は東京、本郷駒込蓬莱町の蓮光寺にあります。
村山市中央一丁目の市役所近くには最上徳内記念館があり、ゆかりの品々や古文書、地図などが展示されています。庭園には北海道の形をした島が浮かんだ池があり村岡久作(1911〜1989)作の最上徳内翁胸像や金田一京助(1882〜1971 言語学者)の揮毫になる顕彰碑、「徳内基準点」といわれる標石があります。この標石は一辺12、基礎上12センチメートルで東面に「基準点」と刻字されています。1993年(平成5)にGPS測量が行われ経緯度、標高がもとめられていますが国土地理院の基準点(三角点)ではありません。
松浦武四郎
松浦武四郎(1818〜1888)は伊勢国一志郡須川村(現在の松阪市小野江町)に生まれ17歳頃から全国周遊の旅にでています。一時、僧職になったこともありましたが28歳頃から6回にわたり蝦夷地(北海道)、樺太(サハリン)、北方諸島の調査を行い紀行や地図を出版、またアイヌ文化の紹介に努めました。1869年(明治2)政府から開拓判官に任用され蝦夷地の新しい名称として「北加伊道」と提案しました。「加伊」(かい)はアイヌ語で「この土地で生まれた者」を意味しますが東海道の例にならい「北海道」と文字が改められました。その後、松浦は開拓政策を批判し開拓判官を辞職しました。
松浦武四郎の生誕地
地図:松阪港
1994年(平成6)開設された松浦武四郎記念館は近畿日本鉄道伊勢中川から東へ3キロメートルの松阪市小野江町にあり松浦の業績紹介とともに古文書の展示があります。生家も記念館のすぐ近くの伊勢参宮街道に面して松阪市指定史跡として残存しています。
大台ヶ原の松浦分骨碑
地図:大台ヶ原山
晩年の松浦は骨董品の収集や登山などですごし68歳で大台ケ原へ、70歳で富士山にも登っています。1888年(明治21)東京神田で没しました。墓地は東京豊島区の染井霊園にありますが遺言により大台ケ原に「分骨碑」があります。碑文では「追悼碑」になっています。1889年(明治22)松浦の長男(初代)一雄氏によって建てられましたが1908年(明治41)に三重県一志郡三雲村の有志によって建て替えられていることが碑文によりわかります。大台ヶ原駐車場近くの大台教会から20分程度で到達できます。一たん名古屋谷に降り原生林に囲まれた美しい広場から小高い丘を登ると山頂の苔むした塚の上に高さ1メートルの分骨碑が見られます。このあたりは「吉野熊野国立公園西大台利用調整地区」で立入りには環境省近畿地方環境事務所の許可が必要です。
長久保赤水
地図:高萩
長久保赤水(ながくぼ・ せきすい 1717〜1801)は常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)出身の地理学者、漢学者です。1777年(安永6)には水戸藩主徳川治保の侍講となっています。1779年(安永8)日本で初めて経緯度線が入った地図である「改正日本輿地路程全圖」(かいせいにほんよちろていぜんず)、通称「赤水図」を刊行しました。この地図はそれまでに刊行された地図や資料をもとに編集されたもので「伊能図」のように実測によるものではありません。
赤水図には緯線には緯度が記載されていますが、経線には経度は記載されていません。10里を1寸として縮尺は約130万分の1となっています。6色刷で、蝦夷(北海道)を除く日本全土が表されています。赤水図は伊能忠敬の地図より約40年前に出版され、明治初期までの1世紀間に8版を数えました。実測した伊能の地図には劣りますが伊能図は市中にでまわることはなく、この赤水図が明治時代まで一般に広く使われました。
長久保の生誕地である高萩市赤浜には1987年(昭和62)に建てられた記念碑があります。JR常磐線高萩から北へ国道の赤浜信号を東にはいった旧街道に面し北側のところです。「長久保赤水誕生地」と彫られ経緯度線のはいった日本地図も描かれています。
この生誕地碑から旧街道を北へ1キロメートルすすむと東側に松林の砂丘が見られますがこの北端に長久保一族の墓地があります。墓地の入口には「從是東 贈從四位 長久保赤水之墓」と彫られ高さ3メートル程度の石柱があり目印になります。墓地の中央には長久保赤水の墓碑があり「水戸前講讀官 赤水○○翁碑」(○は判読不明)と彫られています。また長久保の旧宅はこの墓地からさらに北へ200メートル、国道にでる手前にあります。現在も使用されており非公開です。この位置からJR常磐線南中郷までは徒歩10分たらずです。
石黒信由
(いしくろ・のぶよし)
地図:伏木
石黒信由(いしくろ・のぶよし 1760〜1836)は現在の射水市高木に生まれ和算、測量術、天文暦法を学び地方の測量を行なっていましたが1803年(享和3)伊能忠敬の富山での測量に同行し測量技術の向上をはかりました。そのご加賀藩の測量を命じられ、みずから測量機器の改良を行い「三州測量圖籍」など数々の地図作成に業績を残しました。石黒が考案した機器のなかには「強盗式(がんどうしき)磁石台」といい容易に磁石の水平を保てるものやバーニア目盛りのある磁石盤もあります。[新湊市博物館:越中の偉人 石黒信由 改訂版 2001 p70−82][渡辺誠:石黒信由考案の磁石盤の特徴とバーニア目盛について 「富山史壇」140号 越中史壇会 2003 p1−19]
石黒の顕彰碑は射水市(旧新湊市)の国道8号と同472号の交差付近にある農村公園にあり、そばに「高樹文庫」という展示室がありましたが現在は新湊博物館で保存展示されています。展示室の写真は同博物館、機器は2007年(平成19)10月に富山であった国土地理院主催の地図展で許可を得て撮ったものです。
久米通賢
地図:丸亀
久米榮左衛門通賢(くめ・えいざえもんみちかた 1780〜1841)は現在の東かがわ市馬宿に生まれ、19歳で大阪の間重富(はざましげとみ)の蘭学塾に入門し天文と測量を学び、その後高松藩に取り立てられ伊能忠敬の讃岐測量の際には案内役をつとめました。塩田開発をはじめ河川、港の改修、兵器の開発などに功績があります。
坂出市の西丘陵、常盤公園中腹の塩竃神社境内には1934年(昭和9)地元により建立された坂出神社とともに久米通賢の像が駐車場傍に見られます。また坂出市本町一丁目、JR坂出近くの鎌田共済会郷土博物館は醤油製造業「鎌田」によって1925年(大正14)に設立されましたが久米通賢の作成した高度角を測定する「象限儀」や八分儀「ヲクタントフ」などの測量機器や天文観測の望遠鏡、兵器などが展示されています。
写真は「地平儀」といわれ1806年(文化3)の作品で、目標点の方位角を測定する機器です。全体が真ちゅう製で円周部は直径55センチメートルの目盛り盤になっています。中心には高さ30センチメートルの棒があり、これに副尺目盛りのついた栓抜き形状のレバーが回転し角度を測定します。副尺は10:9のバーニアになっています。望遠鏡などはついていないので、どのようにして目標を視準したかは博物館の学芸員にお聞きしても不明でした。中心の棒の先端部分には細い溝が彫ってあり、これに糸をとおして視準に利用したことも考えられ、中国の清朝で南懐仁が編修した「霊台儀象志」に載っている地平経儀に似ているとの指摘もあります。[中村士、澤田平、長谷川桂子:久米通賢製作の天文・測量器具 「国立天文台報」第5巻1号 2000 p6−8]
この地平儀による方位測定の精度は伊能忠敬の測量と比較されています。
忠敬の測定値は大部分が角度5分の精度であるのに対して、通賢の地平儀による精度は、現存する地平儀の目盛りと測量野帳をしらべると2分であるから、両者の方位測定値を比べる限りは、通賢の方が2倍精度の高い測定を行ったと言ってよい。
[中村士:江戸時代の天文・測量儀器 「科学史研究」第44巻 No.234 岩波書店 2005 p105]
箕作省吾
地図:水沢
箕作省吾(みつくり・しょうご 1821〜1846)は水沢出身、幕末のの蘭学、地理学者です。江戸に上がり津山藩江戸詰の蘭学者、箕作阮甫(みつくり・げんぽ)のもとで地理学者として大成し阮甫に望まれ箕作家の婿養子となり24歳で「坤與図識」を著しました。この著書は日本人の立場から体系化した世界地誌として省吾によって作成された世界地図「新製輿地全図」とともに幕末期の人々に大きな影響を与えました。同郷同時代の人に高野長英(1804〜1850がいます。箕作省吾が作成した地図のうち数点は国土地理院所蔵であり省吾が結核に犯されたとき無理を押して血痰を抑えながら作成した壮絶な地図が存在するそうです。
蘭学者、箕作阮甫の門下生にはわが国の近代測量に欠かせない人物、荒井郁之助(1836〜1909)がいます。戊辰(ぼしん)戦争(新政府軍と旧幕府軍の戦い)に参戦、旧幕府側の榎本武揚のもと海将でしたが敗れ投獄ののち開拓使で北海道の測量、引きつづき1877年(明治10)内務省地理局測量課長に就任し三角測量に多大の成果をあげました。初代の中央気象台長でもあります。
奥羽市水沢の乙女川のそばに「箕作省吾先生誕生之地」の碑があり、近くの乙女川公園には山崎為徳(やまざき・ためのり1857〜1881)と一緒になった碑があります。山崎も水沢出身ですが開成学校(現東京大学)から同志社英学校に入学、創立者新島襄の後継者とも嘱望されていましたが若くして病死しました。山崎の墓は新島の墓とともに京都市若王子の同志社墓地にあります。山崎は地理学者ではありませんがシーボルトが持ち帰った伊能図を原図として米国で1855年に出版されたコルトン社版の地図を翻訳筆写しており、この地図は山崎が設立に尽くした日本基督教団水沢教会で所蔵されています。また「乙女川先人館」には箕作省吾、山崎為徳、と北海道開拓の先駆者吉川鉄之助(1859〜1931)の業績が展示されています。
そのほか
小野光右衛門(1785〜1858)は現岡山県浅口市の出身で大庄屋をつとめ地方行政に貢献しました。浅口市にある金光教図書館には光右衛門が使用したとされる測量機器と製図用具が保管されています。光右衛門は大江村(現井原市)の谷東平(たに・とうへい)について本格的に和算を学びました。谷東平は大坂の麻田剛立の塾で学び高橋至時や間重富とは麻田塾の同門といわれています。また、伊能忠敬が「谷東平と申我等天文ノ弟子」と記していることから、東平は伊能忠敬の影響を受けていると思われます。[岡山県総合文化センター:おかやま人物往来 41 小野光右衛門 「岡山県総合文化センターニュース」No.407 1998 p3]
井澤弥惣兵衛(いざわ・やそべえ 1654か〜1738)は江戸時代の治水家として知られていますが紀伊国那賀郡溝ノ口村(現和歌山県海南市)の出身で紀州藩の勘定方に就任し徳川吉宗(後の八代将軍)の命により紀の川流域の新田開発を行いました。後には武蔵国見沼の干拓、見沼代用水の開削も行いましたが紀州流といわれる土木、測量技術が使用され「水盛り」といわれる水準測量もされました。江戸時代の水準測量では水盛り台といわれる角材の一面に掘った長い溝の中に水を注いで水平面を定めました。水準測量を水盛りと称したようです。
江戸時代の測量地図関係者はつぎの例のように幕府だけでなく地方にも優れた業績を残した人たちがいます。詳しくは今後調査の予定です。
大畑才蔵 (おおはた・さいぞう 1642〜1720) 紀州藩の役人、水準器を使った高低測量、治水事業に功績 有馬喜惣太(ありま・きそうた 1708〜1769) 萩藩の地理図師「防長土圖」の作成 堀田仁助 (ほった・にすけ 1747〜1829) 幕府天文方、津和野藩出身、蝦夷地東岸への新航路開設、地球儀など作成 柴田収蔵 (しばた・しゅうぞう 1820〜1859) 幕府天文方、「改正地球萬国全圖」の作成 東福寺泰作(とうふくじ・たいさく1824〜1901) 松代藩の測量と地図作成 岡崎三蔵 (おかざき・さんぞう 生没年不明) 徳島藩測量方1797年(寛政9)、樋口権右衛門の弟子、領内絵図作成 板屋兵四郎(いたや・へいしろう 生没年不明) 加賀藩の土木工事、測量に従事