
645年(大化1)の大和朝廷による大化の改新で律令制度の導入にともない土地は国有化され全国的に平野部で大規模区画整理事業として方格地割が行われています。一辺、1町(約109メートル平方)の正方形(「坪」とも呼ばれますが現代の坪ではありません)が土地区画の基本となり幅6町(約654メートル)が直交する「条」と「里」によって正方形の大区画(36町)が構成されました。この大区画を単に「里」とも呼びます。また1町をさらに長方形(学説では長地型と半折型があります)に10等分して1反(段)としています。条里制というのはこの区画により開拓された土地にもとづく土地制度です。班田収受(耕作すべき田の割り当て)といわれ農民には2反(23アール)ずつの口分田が提供されました。当時の測量は磁石のほかに縄、竿を用い、またかなり高度な数学もつかわれたようです。以上は当時の文献が極めて少なく確かな根拠はありません。[落合重信:条里制 吉川弘文館 1967 p100][水野柳太郎:面積計算法と方格地割 名古屋大学日本史論集 上巻 吉川弘文館 1975 p37]
距離を測る基準尺は701年(大宝1)の大宝律令で、はじめての度量衡として制定されています。江戸時代になってからも使われたようで八代将軍徳川吉宗は紀伊国熊野神社に納められた大宝律令尺を復元して「享保尺」としています。
条里制の区画は現存されているところが全国にありますが測量につかわれたとされる標石などは伝承によるものです。また測量が地図をつくることよりも境界を明確にし租税徴収に役立てたと思われるものが多いようです。
飛鳥 橘寺の畝割塚
(うねわりづか)
地図:畝傍山
奈良飛鳥の里には聖徳太子誕生の地に建てられた橘寺があります。太子の勝鬘(しょうまん)経講讃の際、散った蓮の華を埋めたところが蓮華塚といわれますが、太子はこれを「一畝」(いっせ、約100平方メートル)と定め、面積の基準として田畑が整理されたので、畝割塚(うねわりづか)とも呼ばれ1畝の10倍を1反(段)、10反で1町とされています。畝割塚はあくまで伝説のことで橘寺の創建時期も確証はありませんが一応7世紀前半と考えられています。[石田茂作:飛鳥時代の寺院址の研究 第一書房 1977(1936年版の復刻)p53−56]
畝割塚は我が国に残存する測量遺跡では最古のものと思われます。本堂は太子殿ともいわれますが、この本堂にむかって左手前(本堂の東南)に芝地が高さ60センチメートル程度の石垣に囲まれています。一辺、約10メートルの角地ですが石垣外側での長さは東西方向、約10、南北方向約11メートルになっており内部はサクラとツツジの植え込みがあります。
畝割塚が金堂の基壇跡であるとの説や金堂は他地点にあったとの説などありましたが近年の発掘調査では金堂はここより東にあったようです。[奈良県立橿原考古学研究所:橘寺 奈良県文化財調査報告書 第80集 1999 p34]
兵庫県太子町の傍示石
地図:龍野、網干
兵庫県太子町は町名の示すとおり推古天皇が聖徳太子に与えた荘園と伝えられています。 この地域は奈良法隆寺領の鵤荘(いかるがそう)として知られ中世の荘園絵図や古文書、条里の方格地割の遺跡が残存しています。傍示石の「傍」は「榜」と記載される文献もありますが太子町の場合は「人べん」のかわりに「片へん」としています。本文では便宜上「傍」を使うこととします。
傍示石については中世(14世紀中頃か)の播磨国地誌、峯相記に「太子御下リ有テ四方ノ堺ニ傍示ノ石ヲ埋ミ給」とあり、また法隆寺に残る1329年(嘉暦4)の「鵤荘絵図」には「御傍示」(傍の人べんは片へん)とも記載、江戸時代後期の「平方村・同出屋敷・柳村入会山絵図」にも「太子なげ岩」と記載されており、鵤荘(いかるがそう)の周辺には太子が境界として埋めた傍示石があると伝えられていました。いつの頃からか太子が現JR網干の北1.5キロメートルにある檀特山上から石を投げてその落ちた範囲を土地の神様からもらったという伝説にすりかわったようです。それゆえ傍示石を「太子の投げ石」とか「太子のはじき石」と呼ばれています。1971年(昭和46)、この伝説上の石が「鵤荘ぼう示石」として兵庫県指定文化財になりました。[太子町立歴史資料館:太子町を描く絵図の世界 2001 p6、p18]
文化財指定当時の4ヶ所の名称は福田、平方(ひらかた)、矢田部、太田でしたが地名として適切でなく現在は鵤北山根、平方、東南、東出と呼ばれています。このほか文化財指定外のものが2ヶ所、松ヶ下と桜ヶ坪に現存しますが荘園絵図と一致するのは指定外の1ヶ所、桜ヶ坪の標石のみです。それとて当該標石の歴史的根拠は乏しいようです。
鵤北山根の傍示石は聖徳太子ゆかりの斑鳩寺の北800メートル、住宅地に隣接した水田跡の中で住宅のよう壁から4〜10メートルにあります。標石上面の一辺40、下底の一辺60センチメートル、地上高さ1メートルで上面はやや南へ傾斜しています。南のよう壁には太子町教育委員会の説明板があります。[太子町教育委員会:播磨国鵤荘現況調査報告U 1989 p52]
平方の傍示石は大歳神社すぐ南を走る道路の真ん中で、この標石をはさんで車道が二つに分かれています。大きさは東西、南北方向とも80〜90、地上高さ60センチメートルであり兵庫県教育委員会の説明板も日英両文です。この標石はもともと神社東の水田にあり道路建設にともない現状保存され道路が計画変更されることになりました。[栗岡清高:鵤荘傍示石(傍は片へん)保存問題の教訓 太子町立歴史資料館「館報」1号 1998 p1]
東南(とうなん)の傍示石は檀持山の直下を走るJR新幹線と、それを横切る送電線の交差地点のすぐ南の住宅地にあります。直径40〜50センチメートルで加工され丸みを帯びた茶色の石が高さ2メートル程度の祠に安置されています。「聖徳太子御遺跡 御傍示石」(傍の人べんは片へん)の表示と兵庫県、太子町教育委員会の説明板が見られます。もともと現位置の50メートル西の水田にあったものが1955年(昭和30)に祠が建設され祀られたものです。
東出(とうで)の傍示石は太田小学校の西にあり学校のよう壁に隣接して「子育地蔵尊」と並んでおり、ほかの傍示石と異なり2個対になっています。地蔵寄り北側の傍示石は底辺100〜110、地上高さ70センチメートルの角ばった石で50センチメートル南よりの傍示石は幅30、奥行80、地上高さ60センチメートルで左肩下がりの石です。太子町教育委員会の説明板も見られます。この傍示石はもともと近くの水田にあったのですが東出荒神社境内に移され1982年(昭和57)頃、小学校の増設工事にともない神社が移築することになり石も現在地に移設されたものです。[太子町教育委員会:播磨国鵤荘現況調査報告V 1990 p49、p103]
松ヶ下の傍示石は集落の西端、T社の工場裏で山の際にあります。巨大な石塊で幅180、奥行110、地上高さ95センチメートルあり太子町教育委員会の説明板も見られます。これも現位置の60メートル北の水田から移設されたようです。[太子町教育委員会:播磨国鵤荘現況調査報告W 1991 p133]
桜ヶ坪の傍示石は太子・龍野バイパス道路の南200メートル、火葬場東の畑を通る狭い農水路のそばでY氏宅の東裏に当たります。幅60、水路底面からの高さ30センチメートルで奥行は土に埋まって不明、説明板もありませんが近くの民家の人に案内いただきました。太子町町立歴史資料館の話では、この石だけが古地図に記載の傍示石の位置と一致するとのことです。しかし傍示石であることを立証するには十分ではありません。
東南と松ヶ下の角ばった礫を含んだ石塊は角礫凝灰岩で、兵庫県北部、揖保川上流の火山地帯で生成された(数百万年前か)岩石が押し出され転石になったものと思われます。開墾が十分でなかった聖徳太子の時代にはこのような大きな石塊が散在しており境界石として利用された可能性があります。
以上、太子町で傍示石とされるところは地中埋没、亡失などを除きほぼ探訪しましたが標石というよりも単なる路傍の自然石といった感が強く、かつ聖徳太子の伝説とあいまって古代条里制にかかわる標石であることを立証するには歴史資料が乏しい現状です。この傍示石とされている石を境界標識以外に用水路施設として用いられたか、あるいは信仰対象とも想定することができます。
文化財指定は一種の権威づけという意味を持ちますが多くの人はそれを無批判に受け入れており、たとえ疑問が起こっても公的な指定を口実として検証を諦めている場合も少なくありません。今後の調査研究、現場の保存に注目したいと思います。[小林基伸:「鵤荘傍示石」(傍は片へん)についての覚書 大山喬平教授退官記念会編 日本社会の史的構造 思文閣出版1997 p725]
福井 若狭町無悪の条里起点石
地図:西津
福井県若狭町無悪(さかなし)に残る条里石です。無悪はJR小浜線、大鳥羽の北2キロメートルにある集落で若狭トンネル(車道)西口のすぐ北にある「無悪ふれあい公園」の中央にみられます。標石は不定形で大きさは最大南北140、東西75、地上高さ40センチメートルで正面には説明板があり、これによると「用地区画(条里制)の測量の際の起点となった石であると伝えられている(中略)この起点石は本来この位置から南東100mの町道沿いにあったが、町道の拡幅工事により現在地に移転したものである」とあります。1964年(昭和39)に若狭町(旧上中町)指定文化財になっています。[上中町文化財保護委員会:若狭かみなかの文化財 上中町教育委員会 1987 p156]
長浜 常喜の立石
(じょうぎのたていし)
地図:長浜
長浜市東(近江長岡との中間)の常喜町集落に古代条里制に関係すると伝承されている標石があります。常喜を訛って「じょり石」(条里石)ともいわれています。JR長浜駅の東4キロメートル、所在地は長浜市本庄728になります。本庄町の信号のある交差点から南100メートルに常喜交番があり、その筋向いの民家の角に横長の石があります。交番の前にも大きな石が置いてありますが、これは関係ありません。
石は東西方向の横幅108、奥行最大40、地上高さ30センチメートルの石灰岩です。かつては南面を一直線にそろえた大小二つの石があったのですが近年、道路拡幅のため小さい方は土中に埋められてしまい大きい方が残っています。この大きい方の中央下に楕円形の穴が貫通していたようですが下部が埋められてしまい近くの公民館でスコップを借りて少し地面を掘ってみましたが、わかりませんでした。この穴は測量につかわれたのではないかともいわれています。また伊吹山に住む伊吹弥三郎が鉄の棒を通してこの穴を穿ったという伝説があります。
南面の線は坂田郡条里制の第九条と第十条の境界線に一致しており条里の条の境界石とされ北坂田と南坂田の郡界とした説がありましたが異説として条と里の各境界線の交点と合致していないので本庄と常喜集落の大字界の標識であるとする説もあります。[滋賀縣坂田郡役所:坂田郡誌 下巻 1913 p704][滋賀縣坂田郡教育会:改訂 近江國坂田郡志 名著出版 1971(1941刊の複製)p415][谷岡武雄:聖徳太子の榜示石 學生社 1976 p53][谷岡武雄:野道の歴史を歩く 3滋賀近江 古今書院 2005 p198]
常喜集落から北へ約4キロメートルのところに長浜市口分田町(くもでちょう)と呼ばれる地名があります。この地方の条里制の名残とも思われますが土豪として口分田氏がいたという説が有力です。
岡山県赤磐市の縄目石、睨み石
地図:万富(まんとみ)
赤磐市の西部、JR瀬戸から砂川を6キロメートルほど遡ります。旧赤坂町から旧山陽町にかけて古代条里制にもとづく土地測量にあたって基点の役割をはたし、また境界を示すためにも用いられたと考えられる標石があります。旧赤坂町東窪田に残る「縄目石」、旧山陽町上仁保、西仁保、下仁保に残る「睨み石」などがあります。これらは伝承上のことであり当該標石については旧町村史に載っていますが歴史的な裏づけに乏しいものです。[岡山縣赤磐郡教育會:改修 赤磐郡誌 全 岡山縣赤磐郡教育會 1940 p337−339]
「縄目石」というのは「なめら石」ともよばれ、その呼称からは石と石を結んで測量のために縄を張ったことが想像されます。東窪田にはK美容院の南に1箇所残存しています。30年ほど以前(1976年頃か)、道路拡幅の影響で西の側道へ数メートル移設されていますが1979年(昭和54)に赤坂町(現赤磐市)指定史跡になっています。幅40、高さ50センチメートルで先端が細めの花崗岩でしたが現在は大部分埋没し幅27、奥行14、地上高さ20センチメートルになっています。以前はこのほか2箇所にあったと伝えられています。[西山村史編纂委員会:西山村史 全 教育出版 1954 p37−38]、[赤坂町教育委員会:赤坂町誌 赤坂町 1984 p619]
「睨み石」も縄目石と同様に測量基点の役割がありましたが傾斜地ではうまく縄が引けないため目標の標柱を立ててこの位置から、またはこの位置を睨んで条里を定めたといわれています。現在、上仁保はじめ3箇所残存しています。
上仁保の「睨み石」は西山団地の南端で老人施設「グループホーム」から道を挟んで北の丘陵斜面にあります。カキの樹の下でそばには旧山陽町の説明板が建てられています。幅30、奥行28、地上高さ75センチメートルの不整形の花崗岩です。[山陽町史編集委員会:山陽町史 山陽町 1986 p148−151]
西仁保の「睨み石」は西仁保集落の中央、四つ角東北に地蔵がありその前に石がありますが表示板もなく赤磐市教育委員会で確認しましたが「睨み石」と伝承されているとのことでした。幅80、奥行40、地上高さ40センチメートル程度の丸みを帯びた石です。
下仁保の[睨み石」はK氏宅の外庭先、消火ホース箱の右隣にあります。元は現位置の南西10メートルの地点にあり4、5年前に移設されています。代々大切な石であると伝えられていたそうです。K氏宅前の細い道から1メートル北西へ奥まったところにあり幅50、奥行28、地上高さ98センチメートルの花崗岩です。上端から50センチメートル下で折損しておりセメントで補修されていました。
「睨み石」の近くの民家には「ナワメスジの窓」とよばれ白壁に10センチメートル程度の四角い穴が開けられ魔除けとされています。この窓から見通した線が条里の区画線に一致しているともいわれています。[谷岡武雄:聖徳太子の榜示石 學生社 1976 p58−67]
多賀城碑
地図:仙台東北部
多賀城は奈良時代、蝦夷の侵入に備え築かれた城であり、この碑はJR東北本線国府多賀城の北西600メートルの地点、多賀城南門跡近くにある小さなお堂の中に立っています。横幅90センチメートル、高さ2メートル程度の砂岩で文字のある正面は真西に向かっています。上部に「西」の一字があり、その下に碑文が彫られています。
碑文の前半は「多賀城」、「去京一千五百里」、「去蝦夷國界一百廿里」、「去常陸國界四百十二里」、「去下野國界二百七十四里」、「去靺鞨國界三千里」と多賀城までの距離が刻字されています。「京」は当時の平城京(奈良)であり「靺鞨國」(まつかつのくに)は中国東北部を意味しています。「里」は当時の距離単位で、現在の540メートルに相当します。常陸国の界を勿来(なこそ)関、下野国の界を白河関と考えると両国と多賀城との距離はほぼ等しい(直線距離で150キロメートル程度)はずであるため碑文の大きな差については古くから疑問視されており江戸時代の地図測量で有名な長久保赤水(1717〜1801)も指摘しています。[安倍辰夫、平川南:多賀城碑 その謎を解く 雄山閣出版 1989 p236−242]
後半には、多賀城の設置や修復の時期や人名が記されており最後に「天平宝字六年十二月一日」(西暦762年)と碑の建立年月日が刻まれています。この碑は「壺碑(つぼのいしぶみ)」とも呼ばれ、江戸時代初めに発見され松尾芭蕉も旅の途中にこの碑を訪れ、深い感動をもって対面した様子が「おくのほそ道」に記されています。
壺の石ぶみは 高さ六尺余、横三尺ばかりか 苔を穿ちて文字幽(かす)かなり。四維(ゆい)國界の数里を記(しる)す(中略)ここに至りて疑ひなき千歳の記念(かたみ)今眼前に古人の心を閲(けみ)す 行脚の一徳 存命の喜び 羇旅(きりょ)の労を忘れて涙も落つるばかりなり [角川書店編:おくのほそ道(全)角川書店 2001 p89−91]
多賀城碑は江戸時代初期に発見された石碑ですが、早くから偽碑説が唱えられていましたが近年、多賀城跡の発掘調査が進み遺構の変遷と時期が把握されるようになり碑文の記述が実証されて真碑と確認されています。1998年(平成10)重要文化財に指定されています。