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日本の測量史あらまし

古代から江戸時代の測量

(聖徳太子の時代)
わが国で測量がはじまったのは6世紀末の飛鳥時代から聖徳太子による土地測量であるとされており太子誕生の地に建てられた奈良明日香村の橘寺にある「畝割塚」は一畝の基準になったと伝えられています。この時代以前にも国界など地方豪族の管轄土地の境界や租税の徴収のため必要な測量が何らか形で行われていたものと思われますが遺跡、文献は発見されていません。また推古天皇の頃からは隋、唐に派遣された留学生によって大陸から数学とともに測量方法も伝えられたと考えられます。7世紀半ばの大化の改新以降、田地の国有化と分配のための班田制や区画整理、耕地整理のための条里制が実施され平城京、平安京の設立においては方格地割による大規模な測量が行われています。この頃の遺跡として条里制の施行に必要な測量の基準となる条里石、荘園など領有地の境界を示す傍示石(ぼうじいし)の存在が伝承されています。

(中世)
8世紀、奈良時代には僧、行基菩薩により日本全国にわたる街道図が編集されましたが通称「行基図」といわれ京都下鴨神社、仁和寺などに現存していますが単なる絵図で測量とはほど遠いものです。また奈良時代、蝦夷の侵入に備え築かれた宮城多賀城には里程碑が残存していますが正確な測量にもとづくものではないと見られています。14世紀の鎌倉時代終期までは特記される記録は見当たりませんが諸国の荘園の地図などはある程度の測量によって作成されたと考えられます。16世紀の室町時代からヨーロッパ文化の伝来により銃器とともに新しい築城技術も試みられ、これにともなう土木工事の測量も新しい技術が導入されたと思われます。16世紀後半の安土桃山時代には豊臣秀吉による検地が行われました。「太閤検地」といわれていますが土地調査事業であり各地の大名は大規模な測量によって耕地などの生産量である石高を定め公認されました。この頃、絵地図「文禄国絵図」が作成されています。

(江戸時代前期)
17世紀の江戸時代になると徳川家康は江戸に街の割付を行いました。また慶長年間には全国の租税調査とともに第一次の国絵図が作成されています。ヨーロッパからの技術伝来が盛んになりポルトガル人フェレイラ(Christovao Ferreira 沢野忠庵に改名)により天文測量術、オランダの医師カスパル(当時はカスパルを漢字では加須波留と書きました。カスパルでなく砲術家ユリアーン・スヘーデルとする説もあります)により三角術を応用した規矩術が伝えられています。規矩術は幻術とされ当時の幕府はとりあえず使用禁止とされました。また安井算哲により江戸麻布で緯度の観測が行われ、その後、日本各地の緯度が測定され元禄年間に「天文成象」が出版されています。17世紀中頃、明暦の江戸大火の復興に際し幕府は北条安房守に実測図「江戸図」の作成を命じ、金澤清左衛門が起用されました。これまで禁止されていた三角術を応用した規矩術がつかわれその功績が認められてきました。幕府では第二次の国絵図の調整が企画され各藩作成の国絵図を集め日本全図「正保図」が編集されました。これには数学者、測量家の北條安房が関与していたと見られます。17世紀末には第三次の国絵図が作成されましたが、これは第二次の「正保図」の修正、調整であったようです。この頃、江戸に玉川の水を利用した水道を施工するため水準測量が行われています。

(江戸時代後期)
18世紀のはじめには日本国総図として「元禄日本圖」が作成されました。この時期、細井広沢により「秘伝地域圖法大全書」が刊行、「測量」の字句が使用されています。福田某により富士山の高度を測量され、いまなお残存している萩城下の町割り標石が使用されたのもこの時期です。また村井昌弘、島田道桓(みちたけ)などにより本格的な測量術書も刊行されています。18世紀中頃、琉球では元文検地が行われ図根点としてハル石が使用されました。ハルは字(あざ)の意で、この本格的な測量標石は沖縄各地に残存しています。この時期には長久保赤水(1717〜1801)の「大日本輿地路程全圖」が刊行されましたが、わが国初めての経緯度が記載され「赤水図」と呼ばれ、今日と外形がほぼ変わりない全国図になっています。のちの「伊能図」は幕府が公開しなかったため明治維新までは「赤水図」が一般につかわれていました。

(伊能図)
18世紀の末、高橋至時(よしとき)が天文方に就任、伊能忠敬が入門しました。最上徳内、近藤重蔵は蝦夷地から千島を見分しています。なおフランスではメートル単位が制定され赤道・北極間を1万キロメートルとされています。19世紀初頭から伊能忠敬は幕府の命により17年間にわたり地上実測と天文測量を併用した全国測量を行いました。間宮林蔵は蝦夷地、樺太の測量を行い伊能に協力、高橋景保は「日本邊界略圖」などを刊行しています。伊能忠敬死後、日本全図の作成は高橋景保が引き継ぎ「大日本沿海実測圖」など通称「伊能図」が完成されました。江戸後期、天保年間には幕府は全国諸大名に境域、市邑、面積の調査を発令、日本全図、「天保図」が編集されています。「伊能図」の細部補てんでした。19世紀半ばには松浦武四郎が蝦夷地調査開始し蝦夷地を北海道と呼称するようになりましたが、これは明治2年に正式に改称されています。「伊能圖」は国外に持ち出したシーボルトにより樺太、蝦夷、千島を含めた日本地図「NIPPON」として刊行されています。

明治前期の測量 

(民部省・大蔵省・工部省)
明治維新後、政府はまず租税徴収のため地籍測量を開始し課税対象を明確にしようとしました。このため1869年(明治2)に民部省戸籍地図掛を設け翌年には民部省地理司が設置されましたが1871年(明治4)には大蔵省租税寮地理課設置され民部省地理司の業務が引継がれました。近代的な測量技術はすでに江戸時代から導入、研究はされていましたがまだ実用に至らず1871年(明治4)になって地図測量のため設置された工部省工学寮測量司(後藤象次郎工部卿、山尾庸三少輔工学寮司、河野通信測量正)ではお雇い英国人マックヴィーン(Colin Alexander McVean、1868年(明治1)に灯台建設のため来日、後に工部省測量司測量師長)、ジョイネル(Henry Batson Joyner、1870年( 明治3)に京浜間鉄道布設のために来日、後に工部省測量司測量助師)などによって英国式測量技術が指導されました。翌年、江戸城富士見櫓、芝愛宕山など 東京府下に13ヶ所に三角点設置 小規模の三角測量を初めて実施されました。わが国の本格的な三角測量の嚆矢とされています。しかし測量のほとんどがお雇い外国人の主導で行われ、わが国独自に実施のきざしを見せたのは測量司によって外国製の経緯儀を購入した1873年(明治6)頃からです。

(兵部省陸軍参謀局・陸軍省参謀局)
陸軍の測量についてはまず1869年(明治2)に兵部省が設置され1871年(明治4)には陸軍條例により兵部省に陸軍参謀局間謀隊が設けられ測量と軍用地図作成についての分掌が定められました。翌年には兵部省は陸軍省と海軍省に分立し陸軍省には参謀局が設置されました。1874年(明治7)には陸軍はお雇いフランス武官ジョルダン(Jourdan 如爾壇)の指導でフランス式測量開始しています。これは後年、陸軍が採用したドイツ式測量と対立することになります。試験的な実測は1875年(明治8)に陸軍大演習の一環として習志野で行われ翌年、東京の五千分の一測図に着手しています。1877年(明治10)の内戦、西南戦役は西郷隆盛(1827〜1877)を中心とした鹿児島士族が起こした反乱ですが九州地方の地図が伊能図をもとにした編輯図で不十分なため政府軍は苦戦し正確な地図の必要性が痛感されました。陸軍省参謀局は1873年(明治6)には陸軍省第六局になりましたが翌年にはふたたび陸軍省参謀局になり1878年(明治11)までこの職制がつづきました。

(海軍水路局)
わが国の沿岸測量の源は江戸時代の軍艦操練所ということになります。江戸末期には幕府の主導により軍艦操練所が設けられ兵科とともに測量の実施がおこなわれました。この時期の伝習生は優秀であると教授も行ったようです。しかし維新後多くの伝習生は水路測量から陸地測量に転じました。江戸時代の軍艦操練所においてはオランダの指導により、港湾、海図の測量が行われていましたが維新後、軍制は英国式に替わりました。沿岸測量は陸域の測量事業に並行して1871年(明治4)に兵部省に水路局を設置し1886年(明治19)には海軍水路部となりましたが、かつて軍艦操練所の伝習生であった柳楢悦(やなぎ・ならよし 1832〜1891)が初代海軍水路部長に就任しています。1888年(明治21)には海軍の冠称をとり単に水路部と呼びようになりました。これは軍用のみならず一般船舶にたいしても情報を提供したことによります。このときの水路部長は肝付兼行(1853〜1922)です。そのご一貫して海軍部内で業務が行われ、現在の海上保安庁に受け継がれています。2002年(平成14)には海上保安庁水路部は海洋情報部と改称されています。

(河川測量)
  河川の測量に関しては1872年(明治5)頃からお雇いオランダ人によって治水対策にともなう測量が行われ内務省土木寮お雇いオランダ人ファン・ドールン(Cornelis Johannes Van Doorn)とリンド(Isaac Anne Lindo)が利根川などに水準原点を設置しました。当時河川の所管は治河使、民部省土木司、土木寮頭、内務卿、内務省と目まぐるしく変わりました。

(鉄道測量)
鉄道建設は工部省の所管でしたが東京・横浜間で1870年(明治3)建設が着手され1872年(明治5)に開通しました。これも工部省鉄道寮お雇い英国人エドモンド・モレル(Edmund Morell)の指導のもとに測量が行われました。その後、阪神、北海道方面など全国で鉄道が敷設されましたが1871年(明治4)に設置された工部省測量司は技術力が未熟なため測量は引きつづき、お雇い外国人に依存したり、のちに発足した内務省地理寮にも依頼されました。

(開拓使)
1873年(明治6)には 北海道開拓のための測量が開始され開拓使のお雇い米国人J.R.ワッソン、M.S.デイの指導で荒井郁之助、福士成豊などにより勇払基線、函館助基線が設置され本格的な三角測量が行われています。

(内務省地理寮)
1874年(明治7)内務省地理寮が設置され工部省と大蔵省の業務を引継ぎ、東京についで横浜、西京(京都)、大阪の大都市、港湾都市、鎮台などの三角測量が開始されました。しかしこの測量も当初はお雇い外国人の指導によっています。この年、内務省達により測量司による測點標柱の形状が規定されています。

(大三角測量)
1875年(明治8)には関八州大三角測量が開始されましたが、これは後年の一等三角測量の基礎となりました。これにともない東京・塩竃間の精密水準測量が開始されています。この年、横浜居留地の外国人の行動を制限を再確認するため横浜・小田原間で大がかりな三角測量が行われました。外国人遊歩規程測量といわれ当時の標石は現存しています。また廃藩置県時に境界問題のあった箇所について全国の国境測量も開始されています。この年、小菅智淵(こすげ・ともひろ)などにより「地圖彩式」が出版され洋式地図の記号が標準化されました。

(高低測量)
1876年(明治9)内務省布達により地理寮による高低測量(水準測量)の記号(几号)が規定され東京、横浜などの高低測量が行われています。また東京、横浜、京都、大阪につづいて神戸、新潟、長崎の三角測量が開始されました。量地條例綱領制定、一等大三角法、二、三等三角法、一〜三等高低綱紀なども整備されています。

(内務省地理局)
1877年(明治10)内務省地理寮が改称され地理局が発足し地理局測量課長として荒井郁之助が就任しました。内務省は土地売買を自由化し、全国的な地籍調査を実施し地籍図を「地券圖」と称しました。

(基線測量)
1878年(明治11)地理局は那須基線測量を行っていますが関八州三角測量の基線とするもので那須西原・東京葵町間で電信による経度測量を行っています。ひきつづき全国の三角測量開始し「関八州三角測量」を「全国三角測量」に改称しています。この年、地理局岩橋教章は独墺式「測繪圖譜」(そっかいずふ)を作成、地理局は「地圖圖式」を制定しています。岩橋は1874年(明治7)政府から派遣されウィーン陸軍地理学校で地図学、製版技術を学んでいます。

(参謀本部地図課・測量課)
1878年(明治11)には陸軍省参謀局は廃止され陸軍省参謀本部に地図課、測量課が設けられ軍事に必要な地図作成が行われました。この頃、従来幕府の伝統であったフランス式の軍制から普仏戦争の戦勝国であるドイツ式の軍制に変更されています。1879年(明治12)参謀本部測量課長の小菅智淵(こすげともひろ)工兵少佐は全国全域にわたる測量事業を企画し「全國測量一般ノ意見」を具申しましたが実施に移すには多大の経費を要するため「全國測量速成意見」により修正し、とりあえずは当時、未熟な三角測量によらず平板測量にもとづく図解図根方式によることとしました。この方式は広い地域では誤差が累積して地図としての用をなさないことは承知のうえのことです。図根測量については当時の参謀本部が1880年(明治13)1月に「測地概測 小地測量ノ部」として定めています。このころ内務省地理局の「全国三角測量」が開始されていますが、これを待たず1880年(明治13)から関東平野一円で測図された二万分の一地図「迅速測圖」が作成されました。これは内務省地理局の伝統的な手法をつかいフランス式「明治十三年式地形圖」といわれ経緯度は記載されていないものです。

(参謀本部による三角測量)
1881年(明治14)には図解図根方式の検証のため東京湾口海岸で精密な三角測量を実施し図解図根方式を広域に適用することは不可能であると判明しました。この頃から従来内務省主導の測量が陸軍に移行される兆しがありました。この年、陸軍参謀局第五課長木村信卿から清国外交官へ日本全図数種の密売疑惑事件がありましたが旧内務省派と陸軍との対立に係るものであったともいわれています。1882年(明治15)参謀本部は神奈川県相模野で基線測量、つづいて同地域の二、三等三角測量を実施、また一等三角点100ヶ所の選定を終了して内務省地理局の測量成果とは別に本格的な地図測量が開始されました。この年、参謀本部田坂虎之助大尉は「三角測量説約」を完成、測量は内務省が採用したフランス式から陸軍のドイツ式に移行されました。一方、内務省地理局は江戸城天守台に経緯度原点設置し経度の零度を内務省令で告示しました。

(参謀本部大地測量部・小地測量部)
1883年(明治16)陸軍省参謀本部に大地測量部(後の三角科)、小地測量部(後の地形科)が発足し一等三角測量、一等水準測量が開始されました。基線の設定も前年の相模野につづき静岡県の三方原に設定されました。

(各地方主体の測量)
この頃、各地方でも大型の土木工事が計画実施され、それにともなう測量も従来にない精密さが要求されました。この年、京都府では嶋田道生により琵琶湖疏水計画の測量が完了されました。嶋田は開拓使お雇いライマン、デイから技術習得をしています。

(参謀本部陸軍部測量局)
1884年(明治17)陸軍省参謀本部測量局が発足し三角測量課、地形測量課、地図課が設置されました。1886年(明治19)には参謀本部陸軍部測量局の名称になっています。大阪地方の一色線号の測図が開始され「準正式地形圖」(のち「假製地形圖」)が作成されました。この年、内務省地理局の大三角測量は参謀本部測量局に統合吸収され(大政官布告)ました。明治維新後、わが国の測量は政府の様々の機関が行っており軍用をのぞき内務省が主体になっていましたが地籍測量をのぞき参謀本部に統一されました。内務省地理局は天文観測と気象業務のみになりましたが後年、文部省へ移管され地理局は1891年(明治24)に廃止されました。

(参謀本部の経緯度原点)
1884年(明治17)には東京麻布に仮経緯度原点(一等三角点、旧東京)設置されました。菊地大麓はワシントンの万国測地会議に出席、グリニッチ(緑威)を世界の本初子午線に決定されました。この頃から陸地測量師館潔彦が三角点選点を開始し生涯263点の一等三角点を選点、相模野、三方原についで滋賀県、饗庭野基線の測量が行われました。1886年(明治19)勅令により、わが国の本初子午線と標準時が決定、1887年(明治20)参謀本部測量局、二十万分の一地図を公開、地図払下規則が制定され依託販売が開始されています。

明治後期の測量 

(参謀本部陸地測量部)
1888年(明治21)参謀本部陸地測量部が発足し測量局を廃止、三角科、地形科、製図科、修技所が設置されました。これにより測量業務を陸地測量部に統一、初代部長は工兵大佐小菅智淵でした。本格的な三角測量が全国で行われ正確な地形図が作成されました。陸地測量部は第二次大戦終結の1945年(昭和20)まで継続することになります。陸地測量部の発足にともない「陸地測量部條例」(勅令第25號 1888年(明治21)5月12日)、「陸地測量標條例」、「陸地測量官官制」、「陸地測量官任用規則」などが制定され(陸地測量師は奏任、陸地測量手は判任)、などの法律、規則や1901年(明治34)には「三角測量法式草案」の部内規も整備されました。

1891年(明治24)、東京三宅坂の参謀本部構内に水準原点設置され翌年、東京麻布の東京天文台に経緯度原点設置されました。この頃から三等三角測量が開始されています。1897年(明治30)台湾の測量開始、明治天皇がモリソン山を「新高山」と命名しました。1898年(明治31)一等水準点埋設にセメントの使用が開始されました。1899年(明治32)水沢で緯度観測事業開始され初代所長は木村栄でしたが木村はのちにz項を発見しました。1902年(明治35)北海道で一等三角観測作業開始されました。1873年(明治6年)開拓使により開始された北海道の測量は、港湾測量など他に優先するべきものがあるとされ一時休止されその後、開拓使の廃止にともない北海道庁で地図測量が行われていましたが陸地測量部の全国統一した測量方法により根本的にやり直しが行われたものです。

1906年(明治39)日露戦争後の樺太(サハリン)国境画定が開始され翌年までつづきます。陸地測量部が大きな役割を果たしました。同年、沖縄の測量が、翌年には朝鮮半島の測量が開始されています。北海道夕張岳に北部原点設置、北海道、樺太に適用されました。1908年(明治41)には従来、測標(測量の櫓)間の通信手段として使用された回光信号がモールス化され一定の符号により平文の送受信が容易になりました。この年、地上写真測量の実験が行われています。1909年(明治42)標旗に陸軍の2字を刷り込み測量の所管を一般にも明確にしています。1911年(明治44)には沖縄で基線測量が行われています。三角測量は陸地測量部の発足までに既に一部の地域で開始されていましたが北海道、沖縄ほか外地をのぞき明治末期にはほとんど完成しています。現在見られる一等、二等、三等の三角点標石のなかには当時のものが多数残っており現在も使用されています。

測量標石については「測量標規則」(勅令第58号 1888年(明治21)7月23日)が制定され測量標の保護が規定、「陸地測量標條例」(法律第23号 1890年(明治23)3月26日 )、標石の形状などを定めた「陸地測量標條例施行細則」(陸軍省令 第12号 1890年(明治23)年4月17日)は1949年(昭和24)まで存続しました。同条例第一条は「本條例中測量標ト稱スルモノハ三角點標石、水準點標石、覘標、標杭、測旗、假杭トス」と定義があります。1896年(明治29)三角点の材質を小豆島産の花崗岩に統一1900年(明治33)一等三角点に下方盤石の埋設が開始されました。1902年(明治35)測量標保護について各府県に訓令が出されています。

地図については1889年(明治22)になって伊能図、天保図をもとに輯成二十万分の一図作成開始、「地形原図図式及その解釈」を定め明治二七年式図式制定されました。1895年(明治28)これまで編集図、仮製図といわれた地形図から本格的に五万分の一地形図作成開始されました。1900年(明治33)には明治三十三年式図式が制定されました。1909年(明治42)明治四十二年式図式制定、1910年(明治43)には二万五千分の一地形図の作成が開始されました。

大正から昭和前期の測量

1913年(大正2)一等三角測量、一等水準測量は終了しました。測量の成果は明治成果と呼ばれます。1915年(大正4)北方諸島(国後島、択捉島)で一等三角測量が実施、1918年(大正7)日本経緯度原点の経度が改正され測量成果(経度)の修正が開始、1920年(大正9)第一次大戦後わが国の委任統治領になった南洋諸島の測量が開始されました。この年、関東大地震が発生し、応急測図と被害調査に着手しました。1924年(大正13)マドリッドの万国測地会議で国際回転楕円体が決定されヘイフォードの計算結果が採用されましたが、わが国は従来どおりベッセルの回転楕円体によることとなりました。1925年(大正14)には全国五万分の一地形図刊行が完了しました。近年まで「参謀本部の地図」「陸測の五万」と呼ばれていました。

1931年(昭和6)満州の測量が開始されています。戦時色が濃くなった1937年(昭和12)には国土防衛上秘密保持を要する土地建物などは地図上で偽装改描することとなり1941年(昭和16)には地図販売は停止されています。同年、陸地測量部三角、地形、製図科廃止され総務と第一〜三課設置、修技所は教育部に改称、陸地測量師、測量手を陸軍技師、陸軍技手に改称されました。1944年(昭和19)陸地測量部、松本市西南の波田村(現波田町)へ疎開、貨車新宿駅で空襲被爆、1945年(昭和20)陸地測量部三宅坂庁舎は空襲により焼失、終戦とともに陸地測量部は廃止され、内務省地理調査所が発足しました。

昭和後期以降、近年の測量

(地理調査所、国土地理院)
終戦を境として軍事機関としての陸地測量部から文化機関としての地理調査所に生まれかわりました。同時に軍事を主目的とした測量から国土の開発や国民生活に直結した測量に切り替えられ、連合軍の要請にもとづく基準点標石の調査と復旧などの事業を実施しながら測量、地図の調製、技術研究を行い戦後復興の整備が行われました。1949年(昭和24)にはわが国の測量の基準や測量体系を定めた測量法が制定され、それにもとづき基本測量長期計画が10年ごとに策定されています。その範囲は測地測量、地図作成、地理調査、成果提供などの広範囲におよんでいます。測量法では国が行う基本測量と地方自治体などが行う公共測量が定義され双方の連係も注目されます。1960年(昭和35)地理調査所が改称され国土地理院が発足しました。米国軍政下の沖縄においては琉球政府により1959年(昭和34)琉球測量法が制定され1972年(昭和47)の日本復帰まで継続されました。

戦後、位置(水平位置)を測る三角測量や標高を測る水準測量のほかに地球の性質を表す地磁気や重力について従来の試験的、局地的な測量から全国的な測地測量として開始されました。測量技術面では写真測量が本格的に導入され光波測距儀などの新しい測量機器の開発により測量の高精度化と効率化がはかられ測量方式も三角測量から三辺測量へ徐々に替わってきました。さらに1980年(昭和55)代以降はVLBI(超長基線電波干渉計)やGPSなどの宇宙技術も利用されコンピューター、情報技術の発展とともに測量、地図作製の分野までデジタル化が行われるようになりました。2002年(平成14)からは地球全体に適合した国際的な測地基準である世界測地系に移行しています。測量や測地の成果が地図に反映されるだけでなく世界各国、関係省庁、自治体などの協力と相まって地震予測など防災面にも重要な役割を担っています。


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